第十一話 西洋料理
マキと小梅はそんな宙子をおいてすばやく台所へ行き、食卓の準備をすすめる。手持ち無沙汰に突っ立っている宙子に、忠臣は椅子を引いて座るように促した。
宙子は女性が男性の世話を焼くのが当たり前という環境で育ってきた。忠臣の行動の意味が分からず戸惑いを隠せない。
忠臣に、「女性が座る時には、男性が椅子を引くものなのです」と言われ、宙子はわけもわからず座るしかなかった。
洋卓の上には宙子の朝食の用意もされている。実家では、父と弟の食事の後で宙子は台所で食事をとっていた。ここでは、これから忠臣といっしょに食べるということなのだろう。
食卓が整えられた。オムレツの他はパンと無花果が出され、取手のついた湯呑に白い飲み物が入っている。それらの食器をはさんで、右と左に見慣れぬ細長い銀色のものがおかれていた。
「では、いただきましょうか」
そう忠臣が言うと両脇の銀色のものを手に取り、それらを器用に動かし食べ始めた。宙子も見よう見まねで食べ始めたが、初めてのことなのでうまくできない。
「マキ、宙子さんに箸を」
見かねた忠臣がマキに命じる。宙子はマキから渡された箸を使い再び食べ始めたが、とろとろのオムレツは箸から滑り落ち、なかなか口に入らない。
もう、目の前に座る忠臣の姿を見るのもはばかられ、せっかく小梅が作った朝食の味が全く分からなかった。
食べるのを諦め白い飲み物を手に取りひとくち口に含むと、吐き出しそうなる。飲み物はぬるく温められており、生臭い獣の臭いが口から鼻に抜けていくと吐き気をもよおした。
「それは、牛乳という牛の乳です。芝に牧場があり、毎朝売りに来るのですよ」
宙子は思わずにこりと微笑み、「美味しいです」と心にもないことを言った。
そんな嘘をつく宙子を、忠臣はふっと息をもらしにこやかに見つめる。
「まずは、新しい生活に慣れることから、始めましょう。無理をされないように」
忠臣のやさしい言葉が、宙子の沈んだ心を軽くすると同時に重くもする。小黒の存在が気にかかるといっても、忠臣の妻になったのだ。忠臣にかばわれてばかりの自分をふがいなく思う。
「本来なら、今日は休みをもらっていたのですが、仕事が立て込んでいまして。宙子さんとゆっくり過ごせず申し訳ない」
「いえ、そんなお気遣いは無用です。お仕事ですもの」
外務省といえば、外国にかかわる仕事ということしか宙子にはわからない。忠臣は八年間も留学し勉学に励んだのは、ひとえにお国のためだろう。
やっと国に帰ってきて、仕事に精を出すのはあたりまえだ。そんな忙しい夫に、西洋料理の食べ方を教えてほしいなんて言えば、仕事の邪魔になる。
かといって、マキに頼んでも断られそうだ。
どなたか教えてくれないかしら。
苦痛をともなう食事がやっと終わり、玄関まで忠臣を見送りに行く。靴をはいた忠臣の背中に「お気をつけて行っていらっしゃいませ」と声をかけると、大きな背中がくるりと振り返った。
「いって参ります」と忠臣は唇に微笑みをたたえると、宙子の頬にその唇をふにゃりと押し付けた。
「えっ? あの、これは……」
ふいうちの接近に、宙子の顔にかっと熱が広がる。宙子から少し離れたところに、マキもいるのだ。こんなところを見られて、後でどういう顔をすればいいというのか。
それなのに、忠臣は涼しい顔をして琥珀色の瞳で宙子の顔をのぞきこんでくる。
頬だけでなく小黒が昨晩したように、唇にも同じことをされるのかと宙子はとっさに身構えた。
「イギリスの朝の挨拶です。あちらでは、毎日こうするのですよ」
唇はふさがれなかったが、信じられないことを言われた。
「毎日? 本当に?」
あたふたする宙子の耳に、また忠臣の唇が近づく。
「本当です」
耳に触れそうなところでつぶやかれ、宙子は思わず耳を手で押さえていた。
昨晩お互いのことをもっと知った方がいいと言われたのは、お互いの心の歩み寄りだと思ったのだが、忠臣は直接的に距離を詰めてきた。
小黒と違って、甘い砂糖でくるまれた強引さに胸が痛いほど脈打っている。
ゆでだこのように赤くなった宙子をおいて、忠臣はくすくすと笑いながら、色ガラスがはめ込まれ扉の向こうに消えていった。
その背中を見送り、宙子の全身から力が抜けていく。
毎朝、こんなことでは、わたしの身が持たないわ。でも、そのうち慣れるのかしら……。
とりあえず、明日はマキのいないところであの行為をしてもらおうと、宙子は決意したのだ。
しかし、宙子が心配するほどマキはなんの動揺もしておらず、相変わらず表情のない顔で宙子の後ろに立っていた。
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