第十二話 母屋の住人

 それから宙子が食事の後片付けをしようとするとマキに止められ、母屋へ連れて行かれた。


 母屋までの道行きで、マキから嵯峨野家の屋敷の全貌を説明された。


 嵯峨野家の屋敷が建つ敷地は二万坪あり、その広大な土地の中に御殿と洋館は敷地の中の高台に、坂を下ったところにあるため池のほとりに使用人の長屋が何棟も建っていた。


 小梅やマキはその長屋に住んでおり、毎朝洋館に通ってくるとのことだ。


 嵯峨野家の中心である御殿は表と奥に分かれている。奥には忠臣の継母と幼い弟が住み、表には先々代の祖父が居住していた。表と奥あわせて、使用人の数は六十人にのぼるそうだ。


 宙子は六十人の使用人に囲まれて暮らす生活が想像できず、途中からマキの説明に相槌を打つことさえできなくなった。


「若奥さまには、まず仏間でご先祖さまへの御挨拶をしていただきます」


 仏間に入ると、位牌がずらりと並ぶ仏壇に線香をあげ手を合わせる。


「次は表にいらっしゃる大殿さまに毎朝、ご挨拶していただきます」


 仏間から長い廊下を歩き角をいくつも曲がると、手入れのいき届いた見事な黒松が植えられた庭園に面した居間に到着した。その前で、マキは足を止め閉められた障子の前で平伏した。


「大殿さま、若奥さまでございます」


 その声を合図にして障子が少し動いたところで、聞き取りにくいしわがれた声が室内から発された。


「開けずともよい。忠臣が勝手に決めた嫁など見とうない」


 結婚式の前にこの大殿さまには、忠臣とそろって挨拶を述べた。月代を剃り、髷を結った老人の姿は宙子の目に時代に取り残された遺物のように写った。しかし、しわの奥に埋もれた目はギラギラと生気がみなぎり、かつての胆力を忍ばせた。


 大殿さまは幕末の動乱時に、藩を背負い難局を乗り越えてきた偉大な方であると家令の田辺から聞いていた。小声で、「けして逆らってはいけません」と言われていたのだ。


 身分低い嫁が、おいそれと受け入れられるはずもない。大殿さまの態度は致し方ないこと。拒絶されることは、はなからわかっていた。


 見たくもないと言われても、挨拶をしないわけにはいかない。宙子は廊下に平伏し、口上を述べる。


「身分低き身で、嵯峨野家に加えていただき感謝申し上げます。いたらぬ嫁ではございますが、誠心誠意お家のために尽くしとうございます」


「ふん。心がけだけは大したもんだ。せいぜい化け猫に食われんようにな。この家には、人を食うものが潜んでおるぞ」


 大殿さまの思わせぶりな台詞に、宙子は顔色をなくす。


 小黒のことをおっしゃっているの? 


 廊下でうずくまり立ち上がれない宙子に、マキの声がかかる。


「さっ、次は大奥さまの由良ゆらさまのところでございます」


 マキに、化け猫のことを訊きたい。大殿さまがあれほどあけっぴろげに言うぐらいなのだから、使用人はみな承知のことなのだろう。


「大奥さまのことは義母上ははうえさまとお呼びください」


 促されて歩き出した宙子の後ろから、マキの少しだけためらいを含んだ声がする。


「大殿さまの先ほどのお言葉は、戯言でございます。若奥さまを怖がらせておもしろがって、おいでなのです」


 使用人であるマキの精一杯の慰めだと、宙子は感じた。


 これでは、化け猫のことを訊いても教えてくれないだろう。宙子が知る化け猫の話は、しょせん面白おかしく誇張された話だ。


 この家には、本当の小黒の由緒が言い伝えられているのではないか。


 大殿さまの言葉が脳裏にこびりついたまま、宙子はマキに急かされ忠臣の継母の住まう奥へ向かう。渡り廊下で表とつながった奥は杉の板戸で仕切られ、夜の九時になると鍵がかけられるそうだ。


 まるで、在りし日の大奥ではないかと宙子は舌を巻いた。そして、本来ならば、この隔離された奥に自分は住むはずだったのだ。


 忠臣の結婚に対する思惑はさっぱりわからないが、忠臣があの洋館を建てたのはイギリスの家庭への憧れだけでなく、宙子のためという思いも入っているのかもしれない。そう思うのは、うぬぼれだろうか。


 ここでも角をいくつも曲がるともみじがたくさん植えられた庭にいきあたる。もみじの上の部分が薄っすらと紅葉を始めていた。秋が深まれば辺り一面真っ赤に染まり、美しい景色が見られるだろう。そのもみじの庭に面した由良の居間の前で、先ほどと同じようにマキが先に室内へ声をかける。


「大奥さま、若奥さまでございます」


 マキの声に促され、今度はさっと障子が開いた。二人の女中を従えて、由良は上座に嫣然とした様子で座っていた。


 拒否されずに宙子は安堵したが、初めて会う継母に緊張もしていた。由良は体調がおもわしくないと、結婚式には欠席していたのだ。


 由良は四十手前の年ごろで、折れてしまいそうなほど儚くも美しい人だった。大名の奥方さまを絵に描いたような品のよい微笑をたたえ、じっと宙子を見ていた。


「お初にお目にかかります。宙子と申します。不束な嫁ではございますが、どうぞよろしくご指導のほどお願い申し上げます」


「まあ、かわいらしいお嫁さん。わたくしは小さな大名家から輿入れいたしましたの。青山さまといえば、旗本の大身でいらっしゃったお家。なんだが、親しみがわきますわ」


 拒否されるどころか、温かい言葉をかけてくれた由良に宙子は深々と頭をさげた。


「義母上さま。もったいないお言葉、ありがとう存じます」


「わたくし、先代さまが亡くなってから臥せっておりまして。娘を亡くしてからますます気弱になってしまい、このようなありさまです。仲良くしてくださいね」


 由良の娘ということは、忠臣の妹にあたる。その方が亡くなったという話は、宙子にとって初めて聞くことだった。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「あとはね、九つになる息子の正臣まさおみがおりまして、今は学校にいっております。新しいお姉さまに会いたがっていたので、遊びにきてね」


「はい、またお伺いいたします」


 継母との初めての対面は和やかに終わった。由良のあたたかな人柄に、宙子は胸をそっとなでおろしたのだった。


 無事に挨拶を終え、来た道順を逆にたどり始めると、宙子はマキに確認する。


「若殿さまのご家族でお会いしていないのは、弟君だけですね」


「いえ、実はもうおひと方いらっしゃるのです」


 まだ忠臣に兄弟がいるのだろうかと、宙子は首をかしげた。


「実は、大殿さまの御側室の御息女であられるのぶさまがいらっしゃいます」


 江戸のころには、大名に側室のひとりや二人いたものだ。新しい世でも、呼び名は側室から妾に変わってもそのような人は多い。


「若殿さまの叔母さまということかしら」


「そうです」


「では、その方にもご挨拶を」


 宙子があわてて奥に引き返そうとすると、マキが制止する。


「いえ、それには及びません。信さまは、一度他家に嫁がれましてこの家に戻ってこられたお方」


「お子さまは?」


 宙子の問いに、マキは首をふった。


「お子ができずに、こちらに戻ってこられたのです。あまり人と顔を合わせず、ひっそりとお暮らしでございます」


 結婚しても、子が産まれなければ離縁されることは珍しくなかった。若い娘は、条件のいい結婚相手を探すのに躍起になるもの。しかしいざ結婚しても、子ができなければあっさりと離縁される。


 女の幸せとは、かくも不安定なものなのだわ。


 宙子がそう心の中で独り言ちた瞬間、誰かに見られているような視線を感じ背筋に悪寒が走りぬけた。恐々後ろを振り返り、薄暗い廊下の奥に目をこらしても誰もいない。


 大殿さまに化け猫の話をされ、信という不遇な境遇の人間が住んでいると思うと、この母屋自体が得体の知れない薄気味悪い場所に感じた。


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