第十五話 ニコライ堂
母屋の玄関で預けていたインバネスコートと吾妻コートを受け取り、馬車に乗り込む。
二頭立ての馬車を御者が巧みに操り、恐るべき速さでニコライ堂を目指す。宙子は激しく上下する馬車の中で窓枠にしがみつき、腰かけから転げ落ちないようにするのが精一杯だ。小黒は、宙子の袂の中に入り揺れに耐えていた。
忠臣も体に力を入れ、前を見すえている。二人の気持ちは正臣の無事を祈るばかりだった。
神田にあるロシア公使館の付属地に建つ聖ハリストス教会にたどり着くと、陽が西に傾き建物の影が長くなっていた。
木の足場で覆われた建設途中のニコライ堂も、西日をあびている。まだ作業終了の時刻には早いが、辺りに人影はない。
「人足の姿が見えないな」
忠臣がインバネスコートの下に帯を巻き、刀を差している。洋装に刀というなんとも和洋折衷ないでたちだ。
「金でも払って、人払いしたのかもな。あいつの気配はたしかにするぞ。近い」
黒猫姿の小黒が、辺りを伺う。すると、頭上から子供の泣き声が聞こえてきた。
「あの声は、正臣さんじゃないですか」
宙子は縦横無尽に木の足場が組まれた、冬枯れの山のようなニコライ堂を仰ぎ見る。
「なるほどな。足場の悪いところに誘ってんだよ。正臣を抱えてたら、俺の結界で吹き飛ばされないって考えたんだろ」
「行くしかないな」
忠臣は宙子の手を握り、足場をのぼり始めた。人一人がやっと通れる狭い板の足場を、正臣の声がする方へ進む。冷たい風が吹きつけ、宙子は寒さというよりも恐れに身を震わせた。
「宙子さん、高いところは大丈夫ですか?」
忠臣が気遣ってもらい、宙子は気丈にも明るく返す。
「ちょっと寒いですけど、高いところは大丈夫です。こんな時ですけど、眺めがいいですね。東京が一望できます」
学習院や東京法学校の洋風の学舎、遠くには下町の民家の瓦屋根が大海の波のごとく連なっていた。その瓦の海の上にはぽっかりと、昼間の白い月が心もとない風情で浮かんでいる。
怖くないとは、とても言えない状況だ。それでも宙子は、自分を鼓舞するように夕映えの東京の遠景に見入っていた。かならず、正臣を取り戻すと心に誓いながら。
半分ものぼったところで、正臣の鳴き声が聞こえなくなった。まさかと、思いのぼる足を速めると、頭上から由良の声が落ちてきた。
「やれやれ、待ちくたびれましたよ。かわいそうに、正臣も泣き疲れて気を失ってしまった」
はっと、上空に目を凝らすと夕日に溶けそうな緋色の吾妻コートを着た由良が、右手で正臣を抱え左手で木の足場に手をついて二人を見下ろしていた。
「とうとうお出ましになりやがったな。あれは間違いなく使い魔じゃなくて、玄生だ。本物の奥方を食って、成りすましてたんだろ」
では今まで奥で会っていた由良は、玄生だったということだ。信の言葉を聞いても、あんなに寄る辺なくはかない様子の由良が、化け猫だったなんて信じられなかった。
「しかし、宙子さんは毎日奥に挨拶に行っていたのだ。襲われなくてよかったが、どうして、その時襲わなかったのだろう」
宙子の手を握っている忠臣の手に、力が入る。
「宙子は朝に会ってたんだろ。夜だったら、危なかったな」
ということは、夜に由良に会っていたら、確実に食われていた……。ぞっと、宙子の背筋に冷や汗がつたった瞬間、耳をつんざく足場の板を打つ音がして由良が正臣を抱えたまま、宙子たちがいるところまで猫のような身軽さで飛んできた。
「さっさと上がってこないから、こちらから伺いましたよ」
にべもなく言い放つ由良の唇は、きれいに紅が塗られ血をなめたように赤い。その赤い唇が、耳のあたりまで裂けていた。
あれほど美しかった由良の容姿は、影も形もなくなり、化け猫の様相を帯びている。そしてその細い
忠臣は由良を睨みつけながらつないでいた手を離し、インバネスコートの下の刀に手をかけた。
「正臣を返せ!」
「いやですよ。今は人質ですけど、ずっと殺したくてうずうずしてたんですから。この子がいなくなると、由良があの屋敷にいる意味がなくなるでしょ。子を亡くした母は、実家に帰されるから」
ずっと傍にいた正臣を襲わなかった理由はそういうことだったのか。信へ言った脅しは、嘘だったということだ。
「貴様……」腹の底から絞り出された忠臣の殺気は辺りの空気を震わすほどだった。由良もその気迫に、一歩後ずさりをする。
「おお怖い。さすが腐っても武士ね」
由良は金色に光る猫の目をつり上げ、忠臣の背にかばわれている宙子をねめつける。
「本来ならこんな力仕事、使い魔にやらせるのに、もう全部使っちゃったのよ。宙子さんがお須江を殺したから。あなた大人しい顔して、酷いことするのね」
宙子を青山の家で襲ったのはお須江だったのか。お須江とにこやかに会話した過去が、感じなくてもいい罪悪感を煽る。
「殺したのではなく、払ったのだ。あれはお須江ではなく、使い魔だ。宙子さんに変な負担をかけるな。おまえは、私が切り捨ててやる」
忠臣が鯉口を切る。
「そう焦らなくてもいいでしょ。忠臣さん。久しぶりに会ったのだから昔話くらいさせてくださいよ」
由良はにたりと裂けた唇を上げて、おもねるように忠臣に懇願する。
「おまえと話すことなどない。姉と妹の仇をとるまで」
今にも刀をはらおうとする忠臣を一瞥して、由良は宙子の足元にいる小黒をにやつく顔で見下ろした。
「ねえ、兄上。何年振りかしら。四百年は、経ったわね。お懐かしい。あなたのお力が戻りつつあると感じて、わざわざあの屋敷を離れたけれど、まだ完全ではないようですね」
……兄上? 由良……いや、玄生は何を言っているのだ。小黒は千鳥の飼い猫ではないのか。
「気持ち悪いしゃべり方すんな。俺は別におまえとしゃべることなんてねえよ」
小黒の言葉に、玄生はさも傷ついたといいたげに眉をさげた。
「つれないわねえ。兄上は昔から妹の千鳥しか見てませんでしたから。私のことなんて、どうでもよかったのですよ。だから、私に家督を譲らず妹婿である晴信に国の実権を譲った」
「そんな、カビのはえた話なんぞ聞きたくねえな」
いったい、小黒は敵なのか味方なのかわからなくなり、宙子は問いかける。
「どういうことです。小黒はいったい何者なのですか」
宙子は、足元の小黒と玄生を交互に見比べた。
「小娘、兄上がどう言ったか知らんが、そこの黒猫の中身はそなたの先祖、龍崎高昌本人だ」
「高昌って……。毒殺されたのでしょ。晴信公に」
……待って、毒殺されたと言ったのは、古賀だ。小黒はそんなことは言っていなかった。
「いったいどういうことだ。小黒。説明してくれ。おまえは、千鳥の飼い猫ではなく、本当に高昌なのか」
忠臣も刀から手を離し、小黒に問いただす。
「兄上、そのようなお姿になられてお気の毒に」
玄生が黒猫を見てわざとらしく憐れむ。
「ふん。死後に魂となりおまえが作り出した化け猫に触れたから、俺までこのような姿になったんだろう」
「そうでした、そうでした。私が呪術で作り出した化け猫に晴信を襲わせたおりに、あなたの結界に吹き飛ばされた。跳ね返された呪いで私も死んでしまったのですよ。嵯峨野家へ呪いを残して。お互いとんでもない姿で生き恥をさらしておりますね」
玄生はさも愉快だと言わんばかりに、天を仰ぎ高らかに笑った。
「そんな獣の中に入っていないで、在りし日の麗しいお姿に戻ってくださいよ。
三人の注目を集めている黒猫には影が差し、表情をくみ取ることができない。
「そんなに昔話がしたいんなら、付き合ってやるよ」
そう言う黒猫の中から霧のように立ち上った影は、たちまち侍烏帽子をかぶった直垂姿の武人の姿に変わった。眉目秀麗なその人は、ふっと横を向き宙子に悲し気な笑みを見せた。その刹那、宙子の頭の中に見たこともない風景が流れ込んでくる。
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