第十六話 転落

 薄暗い板の間に敷かれたしとねの上に、その人――龍崎高昌――は横たわっていた。先ほど宙子が見た直垂姿の生気みなぎる姿ではなく、おもやつれした容貌は、明らかに死病であることがわかる。


 その傍らに赤い髪を背中に垂らした女が、高昌の額に触れていた。どことなく宙子に面差しが似ている。


「千鳥、もうよい。そなたの癒しの力をもってしても、俺の病は癒えん。この命が尽きる前に、せねばならぬことがある」


 それだけ吐き出すと、高昌は身をよじりひどくせき込む。


「兄上、そのような気弱なことを、おっしゃらないでください。仏さまにも毎日手を合わせております。きっと、ご加護があるはずです」


 千鳥はせき込む高昌の背を、必死にさする。


「晴信を、晴信を呼んでくれ……」


 高昌の絞り出すような懇願に、千鳥は顔をゆがめ下がって行った。しばらくして、温和な顔つきの若い男性が、高昌の枕元にはべる。


「千鳥から聞きました。らしくないことをおっしゃっていると。剛の者とならしたお館さまなら、病にも打ち勝てましょう」


「気休めを言うな、晴信。おまえに遺言だ。この国を頼む。証として我が愛刀の芳正をおまえに譲ろう」


「何をおっしゃいます。龍崎家はご子息の長丸さまが継がれるのです。私は家臣として長丸さまをお支え致します」


「平時なら、それでかまわん。しかし、今は戦乱の世。国境ではいまだ小競り合いが続き、隣国は我が領土を虎視眈々と狙っておる。何時攻め込まれるかもわからん乱世を、たった三つの童を神輿にかついで、治められるはずがない」


「長丸さまが幼すぎるのであれば、弟君の玄生さまに還俗していただいたらどうです。あの方は、幼少の頃より神童と言われてきた」


 晴信を見ていた高昌は、天井に視線をさ迷わせる。


「あれはたしかに優秀な弟だが、俗世には疎い。賢いだけでは、この世を渡ってはいけぬ」


 そうきっぱり言い切った高昌は、目を閉じた。


 場面が暗転して、褥の中の高昌の容貌はますますやせ衰えていた。静かに眠る高昌がかっと目を開くと、どたどたと廊下を踏み鳴らす音と共に黒い僧服をまとった男が部屋に飛び込んできた。


「兄上、この国を晴信が治めるとはどういうことですか! 龍崎はどうなるのです」


 食って掛かる玄生へ、高昌は億劫そうに目を向けた。


「そのままの意味だ。長丸やおまえでは、この国を治められん。それだけのこと」


「私にはできる。たくさんの書物にふれ学問に没頭してきた私になら、兄上の代わりが」


「ああ、そなたはたしかに賢い。しかしそれだけだ」


 否定され自尊心を傷つけられた玄生は、歯噛みし皮肉な笑みを張り付かせる。


「そんなに千鳥の子に継がせたいのですか。私は兄上を尊敬しております。しかし一点だけ許せないことがある。それは、実の妹を心から愛しているということ。千鳥は気づいていなくとも私にはわかる。ずっとあなたを見てきた私には」


 高昌は乾いた笑いをもらし、そのまま激しくむせた。


「……くくっ、そんな女々しい感傷で、領民の行く末を預けられるか」


「どうして私では、だめなのです。どうして……」


 玄生が布団に突っ伏すと、その震える肩に高昌の骨ばった手が乗せられた。


「俺が死んだら、菩提を弔ってくれ」


「あなたは、身勝手だ。私に何も与えず否定するくせに、懇願だけは忘れない」


 玄生の口から嗚咽がもれ、霧が晴れるように元のニコライ堂の足場の景色に戻った。




 時がどれだけ経ったのか、あたりは薄暗く西の空にかすかな残照が残っているだけ。


「高昌は毒殺されたのではなく、病死だったのか。ならばなぜ、嵯峨野家は逆臣の汚名を背負ってきたのだ」


 忠臣が、高昌の姿に戻った小黒を問い詰める。


しゅだ。毒殺という汚名は、玄生が嵯峨野家にかけた呪いだ」


「ふん。嵯峨野家など逆臣のそしりを受けて当然ではないか。正当な後継者から何もかも取り上げたのだからな」


 そう言い放つ玄生を睨みつけ、忠臣は刀の柄に手をかけた。それを遮るように高昌は、忠臣の前に出る。


「俺はあの時の判断は、間違っていなかったと今でも思っている。しかし、俺のせいでおまえを狂わせたのであれば、いっしょに地獄に落ちてやる。さあ来い!」


 ずっといやらしい笑みを浮かべていた玄生が、ふっと真顔に戻った。


「今更遅いですよ、兄上。もうとっくにここは、地獄だ」


 玄生は長年の恨みというよりも、どうにもならないやるせなさを吐き出すと、抱えていた正臣を空中に放り投げた。忠臣と宙子がとっさに手を伸ばしても届かず、目の前で正臣が落ちていく。


「くそっ、死なせるか!」


 高昌が正臣に飛びつき、いっしょに落下していった。


「貴様、許さん!」


 怒声と共に、忠臣は瞬く間に刀を払い玄生を袈裟懸けに叩ききった。西の空に残る残照が、玄生の体から噴き出る血しぶきを真っ赤に輝かせていた。


 ゆっくり、血に濡れた体が倒れていく。これで終わった……。緊張から一気に弛緩した宙子の体は、膝から崩れ落ちた。


「正臣は、大丈夫。きっと小黒が助けてくれているはずです。下が暗くて見えませんが。きっと大丈夫」


 振り返った忠臣がひざまずき、宙子に手を差し伸べた。そう小黒が助けてくれたはずだ。この足場が悪いところでは、身動きが取りにくい。早く下に降りて。正臣の無事をたしかめないと。


 宙子はそう考えると、ふと自分がこの足場が悪いところに来た理由を思い至った。

 わたしは、忠臣さんとふたりで玄生を切りにきたのだ。でも、今忠臣さんは一人で玄生を切ることができた。どうして?


 小黒の言ったことは、的外れだったのだろうか。


 忠臣が宙子の手を取り立ち上がろうとすると、背後から鏡に映ったような影も立ち上がる。


「なんのために、宙子をここまで連れてきたのだ。これぐらいで、頭に血をのぼらせて判断を誤るとは、やはりおまえは当主の器ではないな。晴信の子孫よ」


 血だらけの玄生がニタニタと笑いながら、忠臣と宙子をねめつける。瞬時に忠臣が振り向こうとすると、その首に玄生の手がかかった。目の前で忠臣の首が、爪が鋭く毛むくじゃらな獣の指に締め上げられていく。


「やめて!!」


「くっ……」


 うめく忠臣の体は、力任せに釣り上げられた。宙子の目の前に忠臣が握る刀が。これで、これで宙子が玄生を切ればいいのだ。手を伸ばそうとしたら……。


「おっと、そうは、させんぞ」


 忠臣は、あっけなく横に投げ飛ばされあわや落下する寸前で、足場の縁に片手ですがりつく。宙子が引き上げようと忠臣に手を伸ばした瞬間、由良の優し気な声が聞こえた。


「だめよ、宙子さん。あなたのお腹には赤子がいるのに。落ちたらどうするの」


 ……赤子? 宙子の手が一瞬遅れた隙に、玄生は忠臣の足場をつかむ手を踏みつけ払いのけた。


 忠臣は持ちこたえられず、叫び声を上げ落ちていく。


「いやーーー、忠臣さん!!」


「やれやれ、やっと邪魔者がいなくなったな。ちょうどいいころ合いに、完全な闇が訪れた。魔が跋扈する刻限ぞ」


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