第十七話 大団円

 熾火のような残照は闇に飲まれ、陽の光の下ではかなくも白かった月が、怪しく輝き始めた。宙子は完全に腰がぬけ、尻もちをつきながら後ずさる。


「さあ、食うてやろう。私は、晴信をかばった妹を使い魔が食うてから、女の肉の味を覚えてな。そなたを食いたくて食いたくて。たまらんかった」


 かつて高潔な僧侶だった男は、尖った耳がはえ、四つ足の醜くもおぞましい化け物になり果てた。このままでは食われてしまう。


「赤子なんて、嘘を言って……。卑怯者!」


「口をつつしめ、小娘。そなたの腹にはたしかに、豆粒のような赤子がおるわ」


 本当に? 小黒が帯の蝶を撫でていたのは、腹の中の赤子を撫でていたということか。忠臣の子をはらんだ喜びよりも、今は恐怖が先に立つ。


「呪い、呪われる両家の血を受け継いだ子が、まさか魔を払う力を持っているとはな」


 魔を払える力を持ったのは、宙子ではなく、赤子だったのだ。


「実家で大人しくお須江に食われておれば、正臣も忠臣もここで死なずにすんだものを。せっかく私が、母親に知恵を授けておびき出したのに。あの二人を殺したのはそなただ」


 玄生は、とうとうと自分勝手にしゃべり続ける。


「そうそう、使い魔が食ってもちゃんと私の栄養になるのだよ。忌々しい腹の子を食いたくなくて、使い魔に譲ったのではないからな。では、そろそろ食うとするか」


 玄生は裂けた口を大きく開け、舌なめずりする。赤く長い舌が、月の光に照らされ、はっきり見えた。恐怖に飲まれそうになったが、宙子は己を奮い立たせる。ここで、終わらせるわけにはいかない。


「あなたはどうして、そんなに家督が欲しかったの? 家督を継いだとしても、高昌さんに成り代われるわけがないのに」


 怒らせて、我を忘れさせて時間稼ぎをすれば、かならず……。


「何が言いたい、小娘」


 化け猫は、鼻にしわをよせ不快な表情になる。宙子は、一言一句かみしめるように、ゆっくりと反撃の言葉を投げつける。


「ずっとお兄さんを見てきたと言っていましたね。それは、立派な兄になりたかったということです。わたしには、わかります。わたしも母にかわいがられる姉が羨ましくて、ずっと見ていた」


「はっ、おまえといっしょにするな」


 宙子を馬鹿にする声に、わずかな怒気が含まれている。でも、宙子が次に何を語るか気になるようで、化け猫の耳はピンと立ち上がる。


「どんなに憧れて成り代わったとしても、みなあなたを通してお兄さんを見るのです。それは、自分というものがなくなるということ。あなたが手にいれたかったものは、そんな虚しいものなのです」


「私を、愚弄するな!! 私は兄上のように国を治められた。それだけの才があったのだ。それを横取りした嵯峨野家を呪ってなにが悪い!」


「違う。あなたはただ単に、お兄さんに認めてもらいたかっただけ。自分の思い通りにいかなくて、だだをこねている子供と変わらない。あなたの呪いは嵯峨野家に対する復讐でもなんでもなく、ただの浅ましい兄に対する執着よ!」


 宙子が言い放ったとたん、化け猫の月に届くような咆哮が、宙子の上にのしかかる。あわや、食われる寸前。宙子は観念して瞼を強くつむった。


 すると、上空でバサッと鳥が羽ばたいたような音がして、宙子は思わず目を開けた。突然、頭上から黒い物体が降ってきて、激高する玄生の頭に覆いかぶさる。それは、忠臣のインバネスコートだった。


 視界を塞がれた化け猫が、コートを剥がそうともがいている隙に、鋭い声が夜空にこだまする。


「宙子さん!」


 声のする方を見上げると、上弦の月を背にして大きな獣が飛んでいる。その背にまたがっていた忠臣が、刀を手にして宙子の元へ舞い降りてきた。


 きっと助けに来てくれると信じていた人が、望み通りやってきた。ふぬけている場合ではない。死を覚悟した宙子の体に力がみなぎり、すっくと立ちあがる。


 忠臣が背後に降り立つと、宙子は腕の前でかまえられた刀の柄を忠臣の手の上から強く握った。今度こそ、今度こそ。嵯峨野家を呪い続けた化け猫を退治する時。


 コートをはぎ取り、再び襲い掛かってきた玄生めがけ、ふたりは勢いよく刀を振り下ろした。現前に立つ玄生の姿は血を流さず、生木が割かれたように真っ二つに割れた。


 叫び声も上げず、金色の目をむく化け猫は、「兄上……」と兄を呼ぶ弱々しい声だけを残し闇に塗りつぶされた。


 化け猫との闘いの場は夢のように消え失せ、静穏なニコライ堂の建設現場へと戻る。


「……終わったな」


 大きな化け猫姿の小黒が、ぽつりとこぼした台詞からなんの感情も読み取れない。宙子はただ茫然と忠臣に抱えられていた。玄生が消えた空間に視線をさ迷わせていると、冷たい風に吹かれ身震いをする。


 忠臣が落ちていたインバネスコートを拾い肩にかけてやると、肩にかかるコートの重みで宙子は我に返る。


「正臣さんは、無事ですか?」


「ああ、安全な場所で寝かせてる。心配すんな。しっかし、忠臣まで降ってくるとは思わなかったぞ。後ちょっと気づくのが遅れてたら、やばかったな」


「小黒……いや、高昌殿に助けてもらわなかったら、死んでいたかもしれないな」


「おい、小黒でいいよ」


「しかし、宙子さんの御先祖であるのだし。というか我が家にもあなたの血が流れている」


 小黒は、虎のように大きな体を丸くする。


「いや、今更かしこまられても。俺は、何百年と現世を見続けてきたんだ。もう、昔の俺じゃねえよ」


 宙子はすべてが終わり、気になることがあった。


「これから、小黒はどうするのですか? もう嵯峨野家を守らなくてもよくなったわけだけれど」


「なんだ、宙子は俺ともっといっしょにいたいのか?」


 冗談めかして言う小黒に、はっきりとそうだとは言えない。


 千鳥への愛情ゆえに嵯峨野家を守っていたのか。それとも自分の判断によって嵯峨野家が呪われたことの責任ゆえか。小黒の気持ちはわからない。それでも変わらず守ってほしいと思うことは、宙子のわがままだ。


 返答が返ってこないので、小黒はふさふさのしっぽを宙子の頬にすりつけた。


「さあ、どうするかな。国に帰って俺を祀ってる社で眠るか」


 そう言えば、嵯峨野家の国元には龍崎高昌を祀る社があると、古賀が言っていた。


「このまま、この身が消えるまで、おまえらの行く末を見届けるのも悪くないけどな。宙子に子供もできたことだし」


「こっ、子供?」


 どうも、忠臣にはあの時の玄生の言葉は耳に届いていなかったようだ。


「あの、玄生が言っていたのですけれど。どうもわたしのお腹に赤ちゃんがいるようで。その赤ちゃんが魔を払う力を持っているそうです」


 宙子は照れながら報告したのだが、忠臣は絶句している。


「そんな……、妊婦をこのような危険な場所に連れてくるとは。あまつさえ 刀で化け猫を切るなんて。私はなんてことを……」


「あー、あー。おまえはぜってーそう言うだろうと思って黙ってたんだよ。終わったことをグズグズ言うな。相変わらずめんどくせーな」


「しかし、何事もなかったからいいようなものの。もし万が一……」


「あのな、素直に喜べよ。お前の子供が宙子の腹の中にいるんだぞ。はげんだかいがあったな」


 小黒が身も蓋もないことを言う。


「その言い方はないだろ。うれしいに決まっている。けれどそもそも宙子さんとの行為は愛であって、子づくりや癒しの力のためでは……」


 忠臣の話は終わりそうにない。宙子はその腕の中から抜け出した。


「早くここから降りましょう。正臣さんの無事な顔を見たいです」


「そうだ、そうだ。忠臣だけおいて、さっさと降りようぜ。宙子俺の背に乗れ」


 小黒が宙子に背中を向けると、付け加えるようにして話を続けた


「忠臣、ひとつだけ願いをきいてくれるか。玄生を俺と同じ社に祀ってやってくれ。頼む」


 小黒らしからぬ控えめな懇願に、忠臣は一瞬躊躇する。姉と妹を殺めた玄生を神として社に祀る。いくら討ち果たしたとはいえ、それは酷なことではないかと宙子は思ったのだが。


「ああ、わかった」


 忠臣は毅然とした態度で承諾した。

 怨霊を神として祀ることで、呪いを鎮められると古来より信じられてきた。忠臣の姉と妹を奪われた玄生への憎しみも、同じように鎮めることができたらいい。


「忠臣さん、わたし元気な赤ちゃんを産みますね」


 未来を見つめる宙子を、忠臣は後ろから包み込むように抱きしめる。忠臣の乱れた髪が宙子の頬にあたり、くすぐったい。


「ありがとうございます。あなたと結婚して本当によかった」


 宙子の腹の前で組まれた忠臣の手に、血が滲んでいた。玄生に踏まれてけがをしたのだろう。


 宙子はそっとその手に触れる。


「わたしも、忠臣さんと結婚出来て幸せです」


 半分かけた月を見上げている小黒の姿を横目で確認すると、お互いの無事を愛おしむように、ふたりは頬を寄せ合う。その抱擁は次第に熱を帯び、唇が半身を求めるように吸い寄せられた瞬間、小黒がくるりと振り返る。


「そういうことは、家でやれ」


 水を差された二人は、渋々体を離し小黒の背中に乗ったのだった。

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