終章
夜会
季節が巡り二度目の秋のこと。今上陛下の誕生日である天長節の祝賀会が、鹿鳴館で開かれていた。ガス灯が灯る玄関には多くの馬車が乗りつけ、続々と飾り立てた招待客が集っていく。
車寄せに嵯峨野家の二頭立ての馬車が横付けされた。
まず燕尾服姿の侯爵嵯峨野家の若き当主が降り立ち、夫人をエスコートする。夫人は優雅な所作で夫の手を取り馬車から降りてきた。
そのとたん、周囲からため息がもれる。
侯爵夫人は西洋人のような赤い髪を高らかに結い上げ、造花で飾っている。その身にまとうドレスは幾分変わっており、大きな雪輪模様が白の綸子の布地の中にいくつも染められていた。図案化された雪の中に菊や藤の花々が、色鮮やかな絹糸と金糸で刺繍されていて、ドレスを豪華に彩る。
このドレスは着物の生地で縫われていた。和と洋が融合したドレスは、ことのほか夫人に似合い辺りを払う美しさだ。
「まあ素敵、宙子さまよ。お子さまを出産されて初めての夜会にご出席ですわ」
父親に連れられた少女が羨望の眼差しを宙子に向ける。
「ああ、大したご出世だ。士族の出で華族に嫁がれて、見事男子をあげられたのだからな」
「お父さま、それは違いますわ。わたくしは女の出世よりも、ご夫婦の仲睦まじさに憧れるのです」
夢見がちな娘に諭され、父親は肩をすくめた。
華族を筆頭に外国人、官吏や教育者、豪商などの招待客がひしめくホールへ、侯爵夫妻は足を踏み入れる。
今上陛下と皇后陛下の御真影が掲げられ、それを盛り立てるように薄紅、黄色、白の大輪の菊の花が大階段の手すりを飾る。
花に誘われ二階へあがると、楽団が奏でる西洋音楽が聞こえてきた。シャンデリアがきらめく真昼のような明るさの舞踏室では、紳士淑女が踊りに興じていた。
夫妻は次々と挨拶に訪れる客たちと、たわいない会話を交わす。
「宙子さま、体調は戻られました? 安産だと伺っておりましたが」
「ありがとうございます。初産は難儀だと聞いておりましたが、するすると産まれてきてくれて。親孝行な子ですわ」
宙子の茶目っ気のある台詞に、一同から笑いがもれる。
「今日のお召し物、とてもお似合いですわ」
舞踏練習会で知り合ったご夫人が、世辞ではない賞賛を宙子におくる。
「わたしの見立てなのですが、お褒めいただきうれしい限りです。このドレスは、亡くなった義母の小袖をほどいて作りましたの」
宙子が恐縮していう言葉を受けて、嵯峨野家の遠縁である老子爵が訊いてきた。
「お義母上が亡くなった後、弟君はどうされているかね?」
「正臣は叔母が面倒をみております。もちろん、我々も見守ってはおりますが。叔母には子がおりませんでしたから、子育てを楽しんでいるようです」
忠臣がそつなく答え、子爵は破顔する。
「おお、それはよかったことだ。大殿さまも安心されているだろう。どうだね、最近のご様子は?」
忠臣は一瞬、苦笑いを浮かべた。
「おかげさまで、達者にしております。近頃はひ孫の顔を見るのを、何よりも楽しみにしておりまして」
「老人には、なによりの良薬ですな」
そうこうしていると、曲が変わりワルツの調べとなった。
「宙子さん、踊りましょうか」
忠臣に言われ宙子はスカートを少しつまみ、膝をおる。ふたりは踊りの輪の中に入って行った。
ワルツを踊る群集をシャンパン片手に見ているイギリス人外交官が、隣に立つ日本の友人に英語で皮肉を浴びせていた。
「日本人はこの鹿鳴館で西洋風を身に着けたと、我々に見せつけたいのだろうけど、滑稽にしか見えないね」
「まあそう言うなよ。お偉いさんたちは、条約改正に躍起になってるのさ。未開の日本が、西洋諸国と肩を並べられる近代国家になった。だから不当な条約を改正してくださいって、アピールしたいんだな」
ふん、と鼻を鳴らした外交官は、ふと一組のカップルに目を止める。それは嵯峨野侯爵夫妻だった。
イギリス仕込みのステップを披露する侯爵に、夫人も負けず劣らず華麗なステップを踏んでいる。息のあったふたりの姿を見ていた外交官が、今度は日本語で友人に話しかける。
「へえ、あのドレスいいねえ」
外交官の目線の先で、シャンデリアの光を受け小袖のドレスに縫い留められたビーズがきらめいていた。
「ああ、嵯峨野侯爵夫人か。侯爵は来年イタリア公使に任命され、夫妻そろってあちらに渡られるそうだよ」
外交官は、腕組みをして自らのあごひげをなでた。
「なるほどねえ。あちらで猿真似と笑われないように、ダンスや日本的美意識を磨かれているのだろう。日本にも素晴らしい文化があるのだから、西洋のものばかり取り入れているのは、馬鹿らしいよ」
「そんなもんかね。日本人も西洋に追いつけ追い越せって、いろいろがんばっているんだよ」
「日本人が西洋人に憧れて、成り代わろうってのが土台無理だって話さ。ちゃんと自分のいいところを自覚して、プライドを持たないと」
「プライドねえ。そうは言うけど、外見からして日本人は西洋人に負けてるんだよ。背は低いし、顔は扁平だし」
友人は、自らの顔を指さし自虐する。
「そんなこと言うなよ。あの侯爵夫妻を見ろよ。あのふたりならイタリアの社交界でも渡り合っていけるさ」
「ははっ、そうだね。お似合いのおふたりだ」
友人があいづちを打つと、外交官は踊るふたりの足元を凝視する。
「んっ? 夫人のスカートの裾から何かチラチラ見えてるぞ。なんだあれ?」
目を凝らすと、それは一匹の黒猫だった。バッスルスタイルの大きく膨らんだスカートの中にもぐりこんでいるようだ。
「どこからか、紛れ込んだのかな。しかし、あの黒猫もダンスを踊っているみたいだ。実に楽しそうじゃないか」
黒猫が足元にいるのを気づいているのかどうかわからないが、侯爵と夫人はお互いの瞳を見つめ、幸せそうに笑い合っていた。
了
旦那さまは憑かれています~侯爵嵯峨野家の退魔帖 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei
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