第十一話 闇の中
京助が見舞いに来た翌日のことだった。夕方、めったに洋館を訪れない家令の田辺がやってきて、忠臣が今晩外泊すると伝えた。なんでも外務省の小間使いが洋館の場所を間違え、母屋のお勝手にきて伝言していったそうだ。
風呂場で宙子が倒れてから、忠臣の帰宅は毎日早かった。きっと仕事が忙しいのに、無理をしていたのだろう。
「若奥さま、今晩わたくしがここに泊まりましょう」
マキは風呂場でのことがあって以来、過保護になっていた。宙子が客間を使えと言ってもマキは台所で寝るだろう。それでは、体が休まらない。
「大丈夫よ。忠臣さんが遅くお帰りの時もあったのですから。心配しないで」
宙子はそう言うと、にこりと微笑んだ。
小梅とマキが仕事を終え長屋へ帰ると、宙子はすべての窓と玄関の扉を施錠して寝室に入った。こういう時は早く寝るに限ると早々に寝台に上がったが、昼間家の中でじっとしているので、なかなか寝付けない。
何回目かわからない寝返りを打つと、背中を向けた扉のあたりに何かの気配を感じ、体の中で心の臓が跳ねた。
心の中で恐れてはならない。恐れてはならない。と繰り返す。宙子が恐れているものは、己の内から湧き上がって来たものなのかもしれないのだ。
きっと気のせいだ。それならば確かめればいいだけ。
宙子はゆっくりと、また寝返りを打つ。薄闇の中、扉に目を凝らしても異変はない。ひとり寝の心細さが感じた、幻だったのだ。
宙子は詰めていた息を吐き出すと力が抜けて、ごろんと仰向けになる。
ありもしないものに怯えて、気弱になっている場合じゃないわ。
自分の臆病を自嘲していると、ふと首に何かが触った。もうすぐ冬だというのに、虫ではないだろう。宙子は首元に右手をやると、つるりとした細長い
腰ひもが寝台の中に紛れたのかと思っていると、宙子の左手が自分の意志に反して勝手に持ち上がる。
見えない糸に操られたように、左手はゆっくりゆっくり宙子の首元へ向かう。裂はいつのまにか首に巻きついていて、その両端を宙子の手が握りしめ、力任せに左右に引っ張った。
信じられないことに宙子は、自分で自分の首を絞めているのだ。操られた両手をどんなに止めようとしても、ますます絞めあげる力が強くなる。
息苦しく生理的な涙で滲む視界に、あの湯船の中で見た目玉が現れた。
もやもやと揺らぐ黒い影が徐々に人の形を取り始め、宙子の顔をのぞき込む。見つめ合う形となり、宙子の全身が総毛立った。
悲鳴は外に漏れず、絞められている喉元で止まる。どうすれば魔を払うことができるかと考えようとしても、どんどん宙子の息はか細くなり苦痛に思考が侵され頭が働かない。
働かない頭に死というものがちらついた瞬間、扉のノブをガチャガチャと回す音が耳に流れ込んできた。
「くそ! 結界を張ってやがる。前より力が強くなってるぞ!」
誰? 小黒……。消えかけていた思考がめぐり出す。
「おい、宙子! 俺と、忠臣の名前を呼べ。そうしたら結界が破れる」
小黒の台詞に、首を絞める力が一層強くなった。声をなんとしても出させまいという邪悪な意志に、宙子はあらん限りの力で立ち向かう。
「お、小黒、忠臣さ、ん……た、助けて!」
宙子の限界を超えた叫びに呼応して扉は勢いよく開き、忠臣と虎ほどもある大きな化け猫が寝室になだれ込んできた。
ふたつに割れたしっぽの化け猫が宙子の上に躍りかかると、黒い影はぱっと煙のようにかき消えた。
「宙子さん! しっかり、息を吸って!」
忠臣は宙子の首に巻きついた裂をはぎ取り、背中をさする。宙子の胸に冷たい夜気が一気に流れ込み、ごほごほとせき込んだ。
「しっかし、えらくでかい生霊だったな。簡単に始末できるかと思ったのに。ありゃ、本体も無事じゃあいられないぜ」
忠臣の中にいたはずの小黒が、化け猫の姿となりしゃべっている。
「あれは、死霊ではなく生霊なのか?」
忠臣も、小黒の存在に驚く訳でもなく平然と会話をしている。
「ああ、いったいどこで宙子に憑りついたのやら」
宙子はちらりと忠臣の手を見ると、赤いリボンが握られていた。大きく深呼吸を繰り返し、だんだん落ち着いてきた宙子の中で疑念が膨らんでいく。
忠臣は小黒の存在を認識している。では、披露宴の夜に小黒が宙子の元を訪れ乱暴しようとしたのも、知っていた?
忠臣が水差しからグラスに水を注ぎ差し出したが、宙子はそれを受け取らなかった。
「あの、これはいったいどういう、状況なのですか。二人の説明を……」
宙子が疑問を口にすると、忠臣の顔に緊張が走る。
「まあいいじゃねえか、俺らのことは。まずはおまえを襲った奴を突き止めないと」
「よくない!」
説明もせずに流そうとする小黒を宙子は遮った。小黒の二つに割れたしっぽがぴんと、天をついて伸びる。
「宙子さんを騙すつもりでは、決してなかったのです」
「おい忠臣、いい子ぶるな。ほとんど騙してたようなもんだろ」
「小黒は黙ってろ。話がややこしくなる」
「騙していた? 全部、嘘なの……」
うつむく宙子の口からもれた言葉が、黒い染みとなり胸に広がってゆく。
「最初から、説明させてください。話は私の留学中から始まります」
必死に言い募る忠臣の顔を、宙子は見ることができなかった。
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