第十話 弟の京助
宙子はその夜からアリスの家庭教師も母屋に行くことも止められ、安静にしているように忠臣に言われた。
いくら大丈夫だと言っても、聞いてくれない。
あまりにもすることがなく、納戸にしまっていた琴を出してきた。洋館には畳の部屋がないので、丸椅子を二つ繋げその上に琴をおき、椅子に座って弾き始めた。
結婚前に琴を弾くと閉じていた心がすっと開く感覚がして夢中で弾いたのだけれど、今はそこまで心が躍らない。
それでも、沈む心のまま宙子は琴を弾き続けた。
洋館の中に閉じこもって数日たったころ、弟の京助が訪ねてきた。母に似た細面の顎のとがった顔立ちに、絣の着物と袴の上に丈の長い書生羽織を羽織った服装は似合っていなかった。
京助は商売の勉強がしたいと、一ツ橋にある東京商業学校へ通っていた。
「姉さま、具合どう? 古賀さんから倒れたって聞いて」
古賀は、京助と同じ学校の先輩だった。
「古賀さんったら、言わなくてもいいのに」
京助の手土産の
「あの人は、めったに学校にこないんだけどね。昨日、たまたま顔を合わせたんだ」
「湯あたりしてしまっただけなのよ。お母さまにも言ったの?」
「言わないよ。大騒ぎするに決まってるし」
京助の台詞を聞き、宙子は安堵した。結婚以来一度も母とは顔を合わせていない。冷たい娘と思われようと、実家に帰る気にはなれなかった。
「まあでも、安心したよ。元気そうで。それに、姉さま幸せそうだ」
弟に面と向かって、幸せそうだと言われ宙子はなんとなく面はゆい。
「忠臣さんがよくしてくださるから、ここの生活にもすっかり慣れたわ。最初は、とんでもないところにお嫁にきたって思ったけれど」
宙子の照れ隠しに、京助は笑いをもらす。
「姉さまのこと、古賀さんが宙子さまって呼んでたよ。お義兄さまもそう呼んでるんだろ。よかったね」
京助だけが、宙子が姉の鏡子のフリをするのはおかしいと言ってくれていた。
「ありがとう」
実家にいる時はお互い忙しく、このようにゆっくり語り合ったことはなかった。
「家の方はどう。婆やだけでは、家事が回らないのじゃない?」
「母さまが、がんばってるよ。あまり癇癪も起こさなくなったし」
「そう、よかった」
鏡子のフリをしている宙子の存在が、母の支えになっていたと思っていたけれど、それは宙子のうぬぼれだったようだ。
「家のことは心配しなくてもいいんだけど。ちょっと気になることがあると言えば、あるんだ」
京助は思わせぶりなことを言い出した。
「姉さまの結婚前のことだけど、釣書を作るのに父さまといっしょに家系図をあらためて見直したんだ。うちって、家康公の家来だったでしょ」
青山家は関ヶ原以前からの家臣の家系だと、母から自慢げに聞かされてきた。
「なんなのいまさら。家系図に不審な点があったってこと?」
「そうじゃないんだけど、うちと嵯峨野さまってなんの繋がりもないっ思ってたら、青山家の初代がどうも嵯峨野さまのお国元出身みたい」
「あら、そうだったの。そんな話聞いたこともなかったわ」
たとえそうであっても、何百年も前の話だ。
「でね、母さまは何にも知らないっていうから、婆やに訊いたんだ。そうしたら……」
京助は言葉を濁してしばらく黙っていたが、意を決して口を開いた。
「青山家は本来なら大名の家系だったのに、嵯峨野家のせいでって言い出して。えらく興奮してさ」
青山家と嵯峨野家に因縁があるというのか。まさか……。
「何を馬鹿なことを。婆やはそれでなくても、年のせいでおかしなことを言う時があるんだから、間に受けないのよ」
「まあね。次の日にあらためて聞いたら、知らないって言ってたし。だから釣書にはその辺ごまかして書いたんだけど。姉さまたちの結婚ってローマンスだよね」
「そうよ。小さい頃に、お会いしていたの」
宙子は無理やり笑顔をつくり、京助の顎のとがった顔を見る。
「そうだよね、この結婚に先祖は関係ないよね。ごめんね、ちょっと気になっただけ」
京助は赤と白のかわいらしい有平糖をつまみ口の中に放り込むと、バリバリと音を鳴らしてかみ砕いた。
それから西洋式の生活の様子や京助の学校の話などして最後に、「たまには帰ってきてよ」と言って京助は洋館を後にした。
玄関で京助を見送った宙子の胸のうちは久しぶりに弟と会ったというのに、すっきりとせず不穏なものを抱えていた。
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