第九話 悪夢
「鏡子、鏡子。起きて、鏡子」
暗闇の中、母が姉を呼ぶ声がする。宙子がゆっくりと瞼を開くと、目の前に母の心配そうな顔があった。
「ああ、よかった。あなたまで死んでしまったらどうしようかと思った」
母は宙子と鏡子を間違えている。いつものことながら、宙子の心は冷えていく。でもこれは夢だ。昔の夢を見ているに決まっている。
夢の中で母と会話したくないのに宙子の口は、意志に反して勝手にしゃべり始めた。
「わたし、幸せな夢を見ていたのです。夢の中で、嵯峨野さまの奥さまになっていて、驚きましたわ」
嘘よ。わたしが忠臣さんの妻よ。お姉さまじゃない!
そう訴えても、鏡子と呼ばれる宙子の口は滑らかに動き続ける。
「お母さま、聞いて。夢の中で宙子がわたしに成りすましていたのよ。わたしのフリをして嵯峨野さまと暮らしていたの。許せないわ」
「まあ、あの子らしいことね。昔から、あなたに張り合ってばかりで、どうしようもない子だったから」
「それでね、わたし腹が立って。殺してやりたいって思ったの。いけないわね」
「かまうものですか。あの子はそれほど、ひどいことをしていたのですもの。きっと、嵯峨野さまにも鏡子と偽っていたのですよ」
違う。忠臣さんは、宙子を選んでくれたのよ。鏡子ではなく、宙子と呼んでくださった。
「そうよね、だからわたし夢の中で宙子を殺しちゃった」
「まあ、だから、こちらの宙子も死んだのね」
母はさもうれしそうな声で、残酷なことを言った。鏡子も母に煽られ、ますます軽快にしゃべり続ける。
「宙子を殺して、わたしが本当の鏡子ですって言ったら、嵯峨野さまはとっても喜んでくださったのよ」
「それはよかったわ。ちゃんと鏡子が愛されて」
「宙子にはちょっと、かわいそうなことをしたけどね。嵯峨野さまに偽りの愛をもらって喜んでいたもの」
「あら、自業自得ですよ。だって、宙子も鏡子を殺したいほど憎んでいたんですから」
母に言われ、鹿鳴館で聞いたこっくりさんの声を思い出す。
『殺したいほど、憎い相手がいた』
あの時、蓋が回り出したのは、わたしが姉を殺したいほど憎んでいたってことなの?
違う、そんなこと思っていなかった。ちょっと、姉さえいなければって思っただけ。でも、そう思ったから姉は死んでしまったの?
だから今、わたしは罰を受けているの?
違う、違う。誰か違うと言って。これは夢なのよ!!
「宙子さん、しっかりしてください。宙子さん」
忠臣に名前を呼ばれ、宙子は夢から目を覚ました。夢と現実の狭間をさ迷っていた視界が、忠臣の不安にゆがむ顔を捉えた。
先ほどの悪夢を退ける確かな感覚がほしく、宙子は忠臣に手を伸ばす。伸ばした手はしっかりと握られ、生きている人間の熱を感じられた。
忠臣は寝台の横の台におかれた水差しから、グラスに水を汲み宙子に渡した。喉がカラカラになっていた宙子は、一気にその水を飲み干し一息つく。
「わたし、どうなったのです?」
「湯船から上げて、体を冷やしました。さいわいどこも火傷にはなっていなかった」
「あの、いったい何がおこったのか……」
忠臣は宙子の手からグラスを受け取ると、台にそっとおく。
「私が帰宅すると、裏手からうめき声が聞こえて、婆が倒れていたのですよ。薪をくべている最中に気を失ったそうで。婆も年ですからね。大事に至らなくてよかった」
婆が倒れたから、湯が熱くなりすぎた?
違う。熱くなっていたのに、さらに薪を足した人物がいる。湯はどんどん熱くなっていった。
でも、そんなことは言えない。犯人が誰かと大騒ぎになるだろう。そして、湯の中から現れたあの黒い影のことを、忠臣に言えるわけがない。
あれを引き寄せたのは、きっと宙子の醜い心だ。夢にみたように、姉を疎ましく思った心がこっくりさんに呪われたのかもしれない。
「婆は悪くないので、どうかお咎めはなしでお願いします」
「もちろんですよ」
宙子がほっと安心したのがわかったのか、忠臣は宙子の額にふれ熱がないかを確認する。
「悪い夢でも見ましたか? ずいぶんうなされていた」
ぎくり、と宙子の体が硬直する。余計なことを口走っていたらどうしよう。忠臣の顔から、目をそらした。
「昔の夢です。姉を亡くした時の」
「ああ」と忠臣は短く同意する。
「肉親を亡くした時の記憶は、いつまでも消えませんね。私もたまにうなされますよ」
宙子をみつめた後、うつむいた忠臣の顔はぬぐい切れない憂いを帯びていた。宙子の良心がきしむ。
姉妹の死を嘆いている純粋な気持ちと、わたしの気持ちは違う。わたしの気持ちはひどく汚い。
「さあ、またお眠りなさい」
もう何も考えたくない宙子だが、最後に罪滅ぼしのように忠臣の身を案じた。
「はい、忠臣さんも眠ってくださいね。明日もお仕事なのに」
忠臣は薄く笑い、立ち上がる。
「私のことは気にしないでください」
忠臣はそのまま、寝室から出て行った。
――おい。いっしょにいてやらないのかよ。宙子、まだ体がきつそうだっただろ。
――私がいたら、ゆっくり休めないだろ。
――ふん。いまだにおまえらの関係が、よくわかんねえわ。思い合ってんだか、避けてんだかよ。
忠臣は足音を忍ばせ、階段を降りて行く。そのまま風呂場へ向かった。
――何か、感じるか?
――ああ、やべー気配がプンプンするぜ。
――でも、奴じゃないのだろ?
――違うな。質の悪いものには変わりねえけど。おまけに、ひとつじゃねえ。
――何? どういうことだ。
――風呂の中と外で、一匹ずついやがった。
――つまり?
――婆を襲って、薪をくべた奴。風呂の中で宙子を湯の中に引きずり込もうとした奴。
婆は気を失ったのではなく、後から頭を殴られていたのだ。
――あやかしに、人を殴ったり薪をくべたりできないだろ。人間じゃないのか。
――さあな。俺は気配をかぎ取っただけだ。操られた人間かもしれねえ。
忠臣は風呂釜に残った湯に手を入れた。湯はすっかり冷めている。
――おい、どうするつもりだ。俺まだ全然力戻ってねえんだけど。お前のせえで。
――わかっている。あぶり出すしかないな。弾き飛ばすぐらいは、できるか?
――まあな、目の前に現れりゃあ、それぐらいできる。お前らが陸み合えば、もっと力がつくけどよ。
忠臣の身の内で、小黒の下卑た笑いがこだました。
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