第八話 湯船の中
その夜、宙子は忠臣の帰宅をまだかまだかと、待ちわびていた。
いつもは居間で英語の単語を覚えたり本を読んだりして時間をつぶすのだが、今日はそれもできずにいた。
由良の居間で聞いたこっくりさんの呪いの話が、頭から離れない。この開化の世にまさか呪いなんてと思うが、ひとりは心細かった。
台所でマキや小梅がまだ仕事をしていて、洋館にひとりきりではないというのに、忠臣といっしょにいたいのだ。
ふと、宙子の唇から皮肉な笑みがもれる。
わたし最初は、忠臣さんといると緊張して息がつまりそうだったのに、今ではすっかりいっしょにいることに安心を感じている。勝手なものね。
忠臣さんは時たま意地悪になるのをのぞいて、最初から変わらず接してくれているのに。
マキが前掛けで手を吹きながら、居間に顔を出した。
「若奥さま、お風呂はどういたします?
風呂の湯は風呂焚き
あまり遅くに風呂に入ると、マキや小梅もちろん婆の仕事が終わらない。宙子は置時計をちらりと見ると、八時半を回っていた。
「わかったわ。入ります」
宙子は脱衣所で着物を脱ぎ、たっぷりと湯の張られた人ひとりが入れる大きさの風呂に、体を沈めた。少々熱めの湯加減だった。
いつもなら宙子が湯につかると、外から婆が加減を聞いてくれるのだが、今日は何も声がかからない。
しばらく我慢して入っていると、額からだらだらと汗が流れ始め、たまらず外へ向かって呼びかける。
「おばあさん、ちょっとお湯が熱いわ。加減してくださいな」
宙子の声に、婆は何も返さない。何かおかしい。異変を感じ、宙子は湯あたりする前に上がろうと前かがみになる。前に傾いだ体は、湯船をのぞき込んだままピクリとも動かなくなった。
……湯の中にナニカいる。
ランプの灯りだけの薄暗い風呂場だから、湯の中も当然暗い。でも、明らかに宙子の影とは違う黒いナニカが湯の中に潜んでいた。
怖いのに、その黒いものから目が離せない。じっと見ていると瞼を開けるように、突然白く丸い目玉のようなものがふたつ現れ、ぎょろりと湯の中から宙子をにらみつけた。
宙子の頭の中で、口から洩れぬ自分の悲鳴がこだました。叫びたいのに、声が出ないのだ。湯から上がりたいのに、体も動かない。
混乱する思考の中で、金縛りにあっているということだけは理解できた。金縛りにあった宙子ができるのは、白い目玉をじっと見続けることだけだった。
宙子の視線の先で目玉が徐々に浮上し始めた。
ふたつの目を持つ黒い影が、水面からゆっくりゆっくり顔を出す。それは徐々に人の形を取り始めた。
これは、こっくりさんの呪いなの? わたし呪い殺されるの?
宙子の混乱と比例して湯もどんどんと熱くなり、体が徐々に煮上がっていく。
このままでは、煮殺される。台所には、マキと小梅がいる。声さえ出れば、助けを呼べるのに。その肝心の声は、どうあがいても出せなかった。
宙子が死を覚悟した瞬間、黒い影が腕を伸ばして宙子にまとわりつく。黒い影にすっぽりと抱きすくめられる形となり、怨嗟の声が宙子の中へ流れ込んできた。
――おまえさえいなければ……死ね、死ね、死ね。
どろどろとした殺意に心が侵され、宙子の意識が遠のいていく。遠のく意識の向こうから、忠臣の声が聞こえてきた。
ああ、死ぬ前に忠臣さんの声が聞けてよかった。
その瞬間、宙子を包んでいた影は消え失せ、突如解放された体は前のめりにたおれていく。熱い湯の中に、頭から沈みそうになったところで、たくましい腕が宙子を抱き留めた。
「宙子さん、しっかりしてください!」
忠臣に湯から引き揚げられ、ゆだった体が一気に冷やされた感覚に安堵したとたん、宙子は気を失った。
その日忠臣は、イギリスの貨物船事故の裁判に関する記録に目を通していた。膨大な量の記録を読んでいたら、あっという間に時間が過ぎていく。
懐中時計を取り出し、時刻を確認すると八時四十五分になろうとしていた。
まだまだ、仕事は終わらない。書類に再び視線を落としたところで、心の内で声がした。
――おい、仕事中だけどよ。ちょっとやばいぞ。
忠臣の中で寝てばかりいてめったに話しかけてこない小黒が、忠臣を呼んだ。いつもは素っ気ない声音が、切羽詰まったかのように早口になっていた。
――やばいとは、どういう意味だ。
――なんか、嫌な感じだ。あいつじゃないけど、やばいもんが洋館にいやがる。
――それは、宙子さんが危ないということか。
――そういうことだ。とうとう危惧してたことが、起こったな。
忠臣はすぐさま書類を放り出し、執務室から飛び出して行った。
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