第十二話 必要な理由
ロンドンで大学生活を送っていた忠臣は、時より頭の中で誰かが名前を呼ぶ幻聴を聞くようになる。
その声は日増しに大きくなり、ついには話かけてくるようになった。声の主は小黒となのり日本で妹と姉が死んだ、即刻帰国しろと警告した。
忠臣は半信半疑で、日本に問い合わせると本当に姉と妹が亡くなっていた。祖父が忠臣の勉学の邪魔をするなと命じ、姉と妹の死は忠臣にふせられていたのだ。
忠臣は小黒にどういうことかと迫ると、嵯峨野家の誰も知らない化け猫の言い伝えを語り出した。
「本当の言い伝え? 龍崎高昌の愛猫が、嵯峨野家の奥方を食い殺したのではないのですか?」
宙子は、古賀から聞いた話を口にした。
「高昌じゃなくて、坊主になってた弟、
「なんで、弟の玄生が奥方を殺すの?」
「あいつは、還俗して龍崎家の家督を継ぐつもりだった。それを嵯峨野晴信に横取りされて恨んだのさ。坊主のくせに、
「化け猫をつくる?」
「猫を殺して、その霊を使役する。死人の中に霊を入れて操ったり、化け猫にしたり」
小黒は、恐ろしいことを淡々と宙子に言って聞かせる。
「じゃあ、奥方を襲った化け猫が弟の作り出したものなら、小黒あなたはいったい何者なの」
宙子が金の双眸を、恐れることなく見据えると、小黒はふっと視線をそらせた。
「高昌の妹であり、晴信の妻でもある
「奥方の飼い猫? じゃあ、あなたは味方ってこと?」
化け猫は、二匹いたということか。
「そうです。嵯峨野家の人間を依代として結界を張り、小黒は嵯峨野家を玄生からずっと守っていたのです」
小黒が守っていたのなら、忠臣の姉と妹はどうして亡くなった?
「守ってくれていたのですが、私が日本を離れたことで結界が破れた。その結果、姉と妹は玄生の呪いで死にました。私のせいです」
宙子は苦悶の表情を浮かべる忠臣を見ていられなくて、視線を大きな化け猫の姿の小黒へ移す。
「どうして忠臣さんが日本を離れたら、結界が破れたの?」
「結界を張るには、力が必要だ。この日ノ本の大地の力が、依代の体を通して俺に流れ込んでいた。それが、忠臣が日本を離れることで俺の力が弱まったんだ」
ということは、姉と妹は忠臣が日本を離れなければ、死ななかったということだ。忠臣の『私のせい』が、宙子の胸に重く黒い澱をつくる。
では宙子を襲った得体のしれないものも、その玄生の呪いなのか。
「先ほどのあれも、玄生の呪いということ? でも、生霊と」
「おそらく、生きている人間の心の闇につけこんで、玄生が宙子を襲わせたんだろ。呪いは今でも嵯峨野家に振りかかっている」
奥方を食い殺した化け猫は、末代まで祟ってやると言い残して消えた。何百年も消えることのない玄生のすさまじい怨念……。宙子の総身に、鳥肌が立つ。
「この話を小黒から聞き、即刻帰国しようとしたのです。しかし、祖父が大学を卒業するまではダメだと。本当のことを祖父に言うこともできず」
「だから忠臣は帰ってすぐ、俺の力が復活するように、宙子を探し出したんだよ」
なぜここで、宙子の名が出てくるのか。宙子の頭に、忠臣に言われた『必要』という言葉がよみがえる。まさか……
「八年も日本の地を離れていたので、早々小黒の力は復活しない。すぐに力を得るには、癒しの力を持ったものの協力がいると……」
忠臣の台詞はどんどん尻すぼみになっていく。
「千鳥は、人を癒す力を持ってたんだ。その力を受け継いだのが、宙子、おまえだ」
「わた、し? わたしにそんな力なんてない」
力なくそう言っても、小黒は金の目で宙子を捕らえて離さない。
「龍崎の末であるおまえには、あるんだよ。ちびの時会ってすぐわかった。千鳥とそっくりな外見、忠臣と手をつないだことで俺に力が流れ込んできた。力は肌を合わせることで得られる。もっとも効率のよい方法は陸み合うことだ」
龍崎の末……。癒しの力。婆やが語ったおかしなこと。言葉の断片が、宙子の頭の中でうまくつながらない。
「つまり、どういうことなの? わたしはいったい、何者なの」
「龍崎高昌の幼い子供は、遠い駿府の青山家の養子にもらわれた。宙子さんの先祖は、龍崎高昌なのです」
先祖が誰かなんて関係ない、それよりも……。
「じゃあ、忠臣さんの言ったわたしが必要な訳って、癒しの力が必要だったってこと?」
宙子のとがめる口調が宙子自身の胸をえぐる。忠臣が小さなころの自分が忘れられなかったなんて、信じていなかった。信じないどころか、化け猫の餌代わりにされてもかまわないと思っていたくせに、宙子は今になって忠臣を責めている。
その責め苦に耐えられないかのように、忠臣は宙子の首筋を見ていた双眸を強くつむる。
「今日のように、危険な目に合わせるとわかっていた。それでも、あなたの先祖から家をのっとった嵯峨野家のために、その力を利用しようと……」
忠臣の台詞は、宙子がその頬を打つことで止まった。うなだれる忠臣の髪は乱れ横顔を半分隠し、頬が赤くはれている。その頬の痛みが宙子に移ったように、手のひらがじんじんとひどく痛む。
皮肉にも夫の頬を打つことで宙子は、忠臣へのはっきりと言語化できずにいた気持ちを自覚した。宙子は忠臣のことをどうしようもなく、愛している。
湯島でこのことを告白されていたら、ここまで苦しいとは感じなかった。むしろ納得して睦み合っていただろう。忠臣を愛してしまったせいで、必要と言う言葉は愛されているから必要だと、宙子の中で都合よく変換されていた。
「それ以上言わないで。ここから出て行ってください」
「おい、宙子。こいつの話最後まで聞いてやれよ。おまえも、もうちょっと言い方あるだろ。わざと怒らせるような言い方しやがって。誤解を解くどころか誤解されてるだろ!」
二人の間をとりなそうとする小黒を無視して忠臣が寝室から出て行くと、小黒の姿も刷毛ではらうようにかき消えた。
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