第四話 舞踏練習会

 昼食後、マキに手伝ってもらい緑のドレスに着替えた。今回はコルセットも緩めにつけ、靴もかかとの低いものを選んだ。披露宴の時のような醜態をさらすわけにはいかないと、宙子は鼻息も荒く鹿鳴館へ出発した。


 永田町の嵯峨野家の屋敷からほどなく馬車で走ると、海鼠なまこ壁が見えてきた。近代的な鹿鳴館の正門はかつての薩摩藩屋敷の黒門を転用していた。


 前時代的な厳めしい黒門をぬけ、正面の車寄せで宙子は馬車からおりる。目の前の異国の宮殿を思わせる壮麗な建物を、宙子は仰ぎ見た。


 玄関を入るとホールの奥に三つ折りの大階段が二階へ通じている。係りの者に、名前を告げると二階へ案内された。


 宙子は優美な装飾を施された手すりに手を添え二階へ上がっていくと、正面の突き当たりが舞踏室であった。


 大きな窓がいくつもあり、外光がたっぷりと降り注ぐ室内は花唐草模様の壁紙が張られ、天井からは大きなシャンデリアが吊りさげられている。


 舞踏室にはすでに数名の紳士やご婦人方が集まっていたが、あまりの華やかさに宙子は声も出せずに入口に留まっていた。


「もし、嵯峨野宙子さまでいらっしゃいますか?」


 名前を呼ばれ宙子が我に返ると、白いドレスの美しい人が立っていた。背筋がピンと伸び、ドレスを完璧に着こなしている姿は、まさにBeautifulだった。


 宙子が慌てて挨拶をすると、その気品漂う夫人は真壁明子だと名乗った。


「忠臣さまから、奥さまのことは聞いております。なんでも英語やダンスを家庭教師の先生に習うほど、頑張り屋さんだと惚気ておられましたよ」


 忠臣が宙子のことをそんな風に話していることに、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。日本男子はとかく、妻女を褒めないものだ。


 人に紹介する時も、少しけなすぐらいがちょうどいいとされている。謙遜の美徳というものだけれど、英国式紳士の忠臣はそのような美徳はないようだった。


「頑張り屋だなんて、そ、そんなことではなくて、興味があるだけですので……」


 宙子の慌てぶりがおかしかったのか明子はくすくす笑って、「かわいらしい方ね」ともらした。


 明子はそのまま、舞踏室にいる人々に宙子を紹介した。すると、そこかしこでささやき声が起こる。


「まああの方が例の、旗本の……」


「なんでも披露宴で倒れたとか、体が弱いんじゃないのか」


「あら、今日のドレスは似合っておいでだこと」


「新婚早々、社交の場に顔を出すとは何事もお早いことで」


 宙子に対する好奇心や陰口が室内に充満していく。宙子は耳がよかったので、聞きたくもない音を拾ってしまうのだ。


 由良が危惧したとおり新しく現れた宙子に、みなはいい意味でも悪い意味でも興味津々のようだ。


 ざわつく会場の空気を払うように、明子が手を打ち鳴らした。


「さあ、みなさま。今日も楽しく踊りましょうね」


 その一声で音楽が流れ始めた。どこから聞こえるかと見まわすと、壁際におかれたピアノからだった。その前には外国人の男性が座りピアノを奏でていた。


 宙子はずっと聞きたかったピアノの音色を耳にして、うっとりと先ほどの陰口をすっかり忘れた。それほど響きがよく心地いい音だ。


 琴よりも音の種類が多いような気がするわ。両手で弾くから、音の重なりも複雑だし。なにより、この広い室内中に響くほど大きな音が出せるなんて。


 素晴らしい音楽を聴き、宙子も琴を弾きたい気分になる。嫁いできて、一度も琴を弾いていなかったのだ。


 そういえば、まだ忠臣さんにピアノのことを訊けていないわ。今日こそ聞いてみようかしら。


 居間においてあるピアノが気になっていたが、連日の勉強ですっかりピアノのことは後回しになっていた。


「今日は、カドリールから始めましょう。さあ、四人一組になって」


 明子が張りのある声でテキパキとみなに、指示を出す。


 鹿鳴館では、カドリール、ワルツ、ポルカ、マズルカ、ギャロップなど多様な踊りが踊られた。


 これらすべてを踊れるようになるには、かなり練習を重ねないといけない。宙子は明子にリードされ、明子と宙子他男性二人と組みになり、カドリールを踊り始めた。音楽に合わせ、お辞儀をして簡単なステップを踏みながら次々と相手を変えていく。


 比較的簡単なカドリールが終われば、今度はギャロップ。宙子の組はなんなくこなせているが、うまく踊れない人には外国人の女性が指導に当たっていた。


 ピアノの音がようやくやみ、休憩となった。宙子は夢中で踊っていて気がつかなかったが、踊りに参加せず壁際に立っておしゃべりに興じている若い女性の集団がある。


 ドレスを着ずに、娘らしい華やかな柄の着物を着ているものが多い。まだ女学生の少女たちなのかもしれない。


 その中のひとりと目が合う。勝気そうな目のつり上がった少女は、宙子がお辞儀をすると、隣の少女の手を取り傍にやってきた。


「宙子さま、踊りがお上手なのですね。わたくし感動いたしました」


 大仰に褒められ宙子は戸惑う。


「ありがとうございます。このような場は初めてですので、仲良くしてくださいね。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」


 ふと二人の足元に視線を落とすと、草履の鼻緒がそろいの兎の模様だった。おそろいにするほど、仲がよいということなのだろう。


「まあ、わたくしったら名乗りもせずに失礼いたしました。飛鳥井郁子あすかいいくこと申します。父は宮内省に出仕しております」


 郁子は公家の出なのか、しゃべり方に京なまりが少しある。言葉ではなく、発音の調子が東京とは違った。こういうのを英語でなんといったか。宙子が知っている英単語の中から思いついたのは、Intonationだった。


 郁子の隣の少女も自己紹介をする。


「わたくしは、小松早紀子こまつさきこでございます」


 早紀子は一重瞼のぽっちゃりとした顔つきをして、髪は娘らしく三つ組みを束ねたマアガレットを結い、大きな赤い繻子のリボンを結んでいた。こちらは京のIntonationではなかった。


 早紀子はそうとうな人見知りのようで、名前を言うと黙り込んだ。しかしちらちらと宙子を見る目は、どこか冷たい。


 しらけた空気に耐え切れなくなり、宙子はふたりに水を向ける。


「あの、ダンスは踊られないのですか?」


「ええ、見学ですの。お父さまにはダンスを習ってこいって言われていますけれど、男性と手をつないで人前で踊るなんて恥ずかしいわ。ねえ、早紀子さん」


 郁子は先ほどまで男性の手をとって踊っていた宙子に向かって、悪びれもせずに言う。同意を求められた早紀子ももじもじするばかりで、返事をしない。


「そうですよね、恥ずかしいですわよね。わたしも初めて主人以外の男性と踊りましたわ」


 その宙子の台詞を受け、郁子は奇声を発する。


「きゃー! 忠臣さまとダンスを踊られるのですか? 羨ましいわ。あんな素敵な男性とならわたくしも踊ってみたい」


 無邪気というかあけすけな悪意さえ感じさせる郁子の言動に、宙子はたじろいでしまう。


 親の庇護の元にいる女の子特有の、恥じらいを装った傲慢さに女学校時代を思い出し、宙子は怒る気にもなれなかった。


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