第三話 杉の板戸

 翌朝、いつものように母屋への挨拶に宙子は渋皮煮を持参した。大殿さまの居間の障子はいまだ開かれぬまま、挨拶を繰り返している。


 今日は渋皮煮を持って来たことを言うと、「ふん、忠臣の好物か」そう一言障子の向こうから声がした。


 すると目の前の障子がすらりと開き、奥に大殿さまがそっぽを向いて脇息に寄りかかっていた。宙子が戸惑っていると、女中が宙子の持っていた渋皮煮を「頂戴いたします」と言って受け取ったのだった。


 大殿さまは忠臣さんの好物を、ちゃんと知っておられる。


 宙子は自分の父が、宙子の好物を把握しているとはとても思えなかった。案外、大殿さまは口先だけで、忠臣や宙子を拒絶しているのかもしれない。


 義母の由良の元へ向かう途中で、マキがぼそりとこぼした。


「大殿さまも、頑固な方ですから」


 そのマキの言い方がいかにも困ったという調子だったので、宙子は忍び笑いをもらしたのだった。


 大殿さまとは打って変わって、義母の由良は手放しで渋皮煮を喜んでくれた。


「正臣がたくさん、宙子さんに届けたと自慢げに言っていましたのよ。正臣が届けた栗が、美味しくなって返ってくるなんて。わたくし、うれしいわ」


 由良とは朝の挨拶をした後、体調がよければこうやって、他愛のないおしゃべりを楽しめるようになっていた。


 由良の両脇にはいつも女中が控えている。この二人の女中は由良よりいくぶん若い年頃で愛そうがよく、主人の前でもコロコロとよく笑い、宙子も気を許していた。


 体調の悪いことが多い由良のために、この二人の女中は明るくふるまい、主人の沈みがちな気持ちを慰めているのだろう。


 気心の知れた女中たちは、由良の実家からついてきたのかと思ったら先代である忠臣の父が亡くなった後から勤めだしたそうだ。


 その女中のひとり、お玉が宙子を見て今日の舞踏練習会のことを聞いてきた。


「今日でしたわね。若奥さまの練習会は」


「あら、そうでしたわ。まあ、わたくし忘れていましたわ」


 由良が、小さな口に手を添えた。


「大奥さま、宙子さまにとって今日はお忙しい日ですから、お引止めしては申し訳ないことです」


 しっかり者のもうひとりの女中、お須江が口を挟んだ。


「練習会は、お昼からなので、急がなくても大丈夫です」


 宙子が気を利かせて言うと、由良はうれしそうに声を上げた。


「まあそうなの。今日は大変でしょうけど、がんばってね」


 ここまで言い、由良は一段声を落とした。


「名家のご令嬢方や、ご夫人方がたくさんお集りでしょうね。そういう会に出られる方は、新しもの好きな積極的な方が多いから……」


 含みのある由良の言葉に、宙子はどう返していいかわからない。


「若奥さま、お気をつけあそばせ。若殿さまはただでさえ人気のある方ですから、その奥さまへのやっかみは相当なものだと思います」


 お玉が、宙子を脅すようなことを言う。


「お玉さん、そんなこと言っては若奥さまがおびえられますよ」


 お須江が宙子をかばってくれたが、宙子は笑顔で受け流す。


「いろいろ言われるのは覚悟の上です。後ろ指を刺されぬように、がんばってきます」


 宙子の決意に三人は同時に、「素晴らしいわ」と相槌を打ったのだった。


 それからしばらくして、宙子は由良の居間から退出した。出て行こうとする宙子に由良は、「明日は、練習会のことをお聞かせくださいね。楽しみにしています」と少し甘えた声を出したのだった。


 由良はこの奥から滅多に出ない。もちろん鹿鳴館にも行ったこともなければ、見たこともないだろう。鹿鳴館の話が少しでも由良の慰めになればいい。


 明日おもしろいお話ができるように、ちゃんとこの目で鹿鳴館を焼き付けておこう。


 すっかり話し込んでしまったので、宙子は玄関へ向かう長い廊下をマキと二人早足で歩いていた。


 もうすぐ奥と表を仕切る杉の板戸が見えるというところで、角を曲がると目の前に急に人影が現れ、ぶつかりそうになった。


 薄暗い廊下に溶け込みそうなほど暗い色目の縞の小袖をまとった人物を、宙子は女中だと思い横を素通りしようとした。すると、マキの鋭い声が後ろから聞こえた。


「信さま、このようなところで供も連れずにおひとりとは。いかがされました」


 マキの台詞で、宙子ははっとする。信とは忠臣の叔母の名前だった。宙子はすかさず廊下の端によりお辞儀をする。


「失礼いたしました。お初にお目にかかります。宙子と申します」


 宙子が挨拶をしても、信からは何も返ってこない。不審に思い宙子が顔を上げると、気難しい顔つきの信が氷のような冷たい目をして宙子を見下ろしていた。


 その視線のあまりの禍々しさに、背筋に氷を当てられたような寒気が走った。


「そなた……。ここからはよう出て行け」


 信の低く押し殺したようなささやきが、宙子の耳奥に突き刺さる。あきらかな悪意をぶつけられて宙子は一瞬息をのむ。


 従順な嫁を演じるのなら、このようなことを言われてもぐっと耐え忍ぶべきところだが、宙子は立ち去る背中に向かって叫んでいた。


「わたしは出て行きません!」 


 信は宙子を顧みることなく、奥へ消えるように姿を消した。


「若奥さま、お気になさいますな。信さまはいつも、大人しいお方なのですが、今日はご機嫌が優れぬようで」


 マキの慰めに宙子は一言、「大丈夫よ」と返したけれど、耳奥に突き刺さった悪意がいつまでもうずいていた。


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