第二話 夫婦の時間

 艶のあるあめ色に煮上がった渋皮煮を、夕食のあと皿に乗せ宙子は忠臣の前に緊張しながら差し出した。


 忠臣は優雅な手つきで黒文字を使い、栗を口の中に入れた。


「ああ、懐かしい味です。この栗の優しい甘みが、子供の頃大好きでした」


 口元をほころばせ喜ぶ忠臣を見て、宙子はほっとひといきついた。


「よかった。お口に合いましたか。小梅さんやマキさんに手伝ってもらったので、味は間違いないとは思ったのですけど」


 味見を何度もしてマキの合格をもらっていても、忠臣に食べてもらうまで自信がなかった。


「この栗は、今年もみなで収穫したのですか?」


 嵯峨野家の秋の行事として、手のすいている使用人たちで、ため池のほとりにある栗の木から栗を収穫する。


「はい、正臣さんも参加されたそうですよ」


 忠臣の弟である九歳になる正臣が、栗でいっぱいになったザルを洋館まで届けてくれた。母親の由良に似た線の細い男の子だが、笑顔がはちきれそうな溌溂とした表情で、


『お姉さま、僕、いっぱい栗を拾いました。食べてください』


 と言って栗を渡してくれたのだ。


「ああ、正臣もですか。あれの姉も生きていたら栗拾いができたろうに。私もよく姉と栗を拾ったものです」


 正臣の姉、つまり忠臣の妹とそれに姉は留学中に亡くなったそうだ。その遺体には獣の噛み跡があったと、宙子は古賀から聞いていた。


 毎朝お参りする仏壇にも、二人の位牌が並んでいた。


 忠臣の父母、姉と妹。忠臣の周りには亡くなった者が多い。宙子も姉を亡くしているので、家族に死者がいるのは特別変わったことではない。


 しかし、化け猫の言い伝えがあるこの嵯峨野家では、死者に余計な裏を探ってしまう。化け猫は末代まで祟ってやると言って、消えたのだ。


 宙子の心が暗く沈みそうになり、わざと明るい声を出した。


「仲がよろしかったのですね」


「ええ、姉とは年が近くいっしょに育ったのですよ」


 忠臣の姉を語る口調が明るくて、宙子は幾分ほっとした。


「そういえば、明日ですね。鹿鳴館での練習会」


 そう言うと、忠臣はふたつ目の渋皮煮を口に入れた。


 いよいよ明日、宙子ははじめての舞踏練習会に参加するのだ。アリスには基本的なことを教わった。少しダンスに自信がついたのも大きな参加の要因だった。


「はい、緊張します」


 宙子の顔が途端にこわばる。忠臣はそんな宙子の頬を優しく包み込んだ。


「大丈夫ですよ。練習会代表の真壁まかべさまには妻をよろしくお願いしますと、伝えてありますから」


 忠臣の口からもれた『妻』という言葉に、宙子の頬は自然と赤らんだ。


 真壁侯爵は去年までイタリア公使を勤めていた人物で、夫婦そろってあちらの社交界で活躍したそうだ。言うなれば、忠臣と宙子夫婦の手本とするべき方たちだった。


「明日の練習会には、明子あきこ夫人が出席されるとのこと。お優しい方なので心配いりません」


「何分、そういう社交の場は初めてなので、忠臣さんにお口添えいただいて、心強いです」


「安心して。用意したドレスは、宙子さんにとても似合っていましたし、ダンスもお上手でしたよ」


 新しく誂えたデイドレスは、数日前に仕上がってきた。緑と黒の一松模様――アリスはチェックと言っていた――の生地に立ち襟と袖口に黒のレースがついている。


 大人っぽい雰囲気であるが、鮮やかな緑が若々しい印象も与えた。何より、宙子の白い肌と赤い髪がしっくりと馴染む色合いのドレスだった。


 このドレスを作る時、アリスをはじめマキや小梅までも加わって長い時間をかけて吟味に吟味を重ねた。


 母と選んだ藤色のドレスより、倍の時間と情熱をかけたのだった。


 仕上がってきたドレスを忠臣に着て見せると、「Beautiful」と言って宙子の手を取っていきなりダンスを踊り出したのだ。


 宙子の拙いダンスでは、忠臣についていくのがやっとだった。それでも忠臣のダンスは巧みでうまく宙子をリードしてくれた。


 うまく踊らなければいけない。アリスとの練習では、そのことばかりが宙子の頭を占領し、ダンス本来の楽しさを味わうどころではなかった。


 忠臣とのダンスはステップを気にせず、多少宙子が間違えても止まらない。しまいには二人でクスクス笑いながら踊り終えたのだった。


「忠臣さんと、ダンスをした感覚も忘れないように。とにかく、明日がんばってきます」


 武士が戦に赴くような決意を内に秘めた宙子に、忠臣は穏やかに微笑みかけ立ち上がり手を差し伸べる。


「さあ、次はお勉強いたしましょうか?」


 宙子はアリスから、毎日英語に触れるように言われている。忠臣は積極的に宙子の勉強に付き合ってくれていた。


「ありがとうございます。お仕事でお疲れなのに、申し訳ないです」


「宙子さんががんばっているのですから、私も応援したい。物覚えが遅いとおっしゃいましたけれど、あなたは十分物覚えが早い」


 忠臣に認められ褒められるたび、宙子はここにいていいのだと言われているような気がする。自ずと、相手の機嫌を伺い相手が喜ぶようなことを言うこともほとんどなくなった。これは宙子に自信がついたせいなのかもしれない。


 宙子は立ち上がり忠臣にエスコートされ、居間へと向かった。


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