第十七話 アレ

 宙子の揺るぎのない声は、忠臣の腕の中に落ちた。久しぶりに嗅ぐ、心を奪われる忠臣の匂いに包まれる。


「私も愛しています。でも、愛すれば愛するほど、あなたを家のために利用しようとしている事実が頭から離れず……」


 忠臣の宙子を抱く腕に、ぐっと力がこもった。


「後ろめたさを払しょくもできず。そうかと言って、あなたに洗いざらい告白する勇気もない。拒否されるのが怖かった」


「それは、わたしが龍崎の末だからですか? 先祖の仇の嵯峨野家を恨むとでも」


「当然、恨まれると思っていました。晴信公が主君であった龍崎高昌を毒殺さえしなければ、華族として栄華を誇っていたのは青山家だったのかもしれないのですよ」


 もし御一新さえなければと、思ったことはある。公方さまが治める世が続いていれば、青山家は落ちぶれることはなかったのだから。


 でもそう思うたび、宙子は自分を浅ましいと感じた。ないものねだりも甚だしい。姉のフリをして、母の愛をもらっている自分がもっとみじめになるだけだ。


「恨んだりしません。何百年も過去の思いに囚われているのは、弟の玄生だけでいいじゃないですか」


 宙子の背中に回されていた忠臣の右手が、首筋をリボンで絞められた跡はもうないというのにこわごわ撫でた。


「あなたは強い。それに引き換え私は守ることもできず、これ以上傷付けたくなくて離れようとした。男としても当主としても、失格です」


 忠臣の背負うものはあまりにも重い。ことは二人だけの問題ではすまされず、嵯峨野家の命運にもかかわってくる。早く小黒が結界を張らなければ、大殿さまや由良、正臣に叔母が狙われるのだ。


 ひいては玄生の呪いにより家が絶えてしまう。華族の当主としては一番恐れることだ。


 宙子は忠臣の胸をそっと押し、暗い影の落ちるかんばせを仰ぎ見る。


「忠臣さんの背負っているものを半分分けてください。夫婦になるということは、一方的に守られるのではなく、守り守られる関係だと思います。違いますか?」


「でも、私があなたを巻き込んだのですよ。私と結婚しなければ、こんな目に遭わずにすんだ」


「そうだとしても、わたしはあなたからそれ以上のものをもらいました。名前を取り戻し、学ぶ機会をいただきました。大嫌いだった自分に自信が持てるようになったのです。だから、はしたないことだって言えます」


 宙子はそっと忠臣の顔を両手で包み込み、臆病な色に染まった瞳をのぞき込む。


「忠臣さん、睦み合いましょう」


 琥珀色の瞳がみるみる潤み始め、真珠のような美しい雫が忠臣の頬を伝い落ちた。


「忠臣さんの涙も美しいですよ」


 宙子がくつくつと笑うと、忠臣は憮然とする。


「男に美しいは、誉め言葉になっていません」


「あらっ、美しいに男も女も関係ないじゃないですか」


「私はあなたに、一生かないませんね」


「それは、一生いっしょにいるということですか?」


 忠臣は返事の代わりに、宙子の唇を軽くついばんだ。


「私と夫婦になっていただけますか」


 宙子は湯島で答えた忠臣の望む通りの返答ではなく、自分の気持ちに従い答えを出す。


「はい、喜んで。もう二度と離さないでください」


 忠臣は腕をほどき、神に誓うかごとく宙子にもう一度キスをする。それから、宙子の膝と脇の下に腕を通し横抱きにしたかと思うと立ち上がった。


 宙子は大きく揺さぶられ、思わず悲鳴を上げる。


「こ、これは何ごとですか?」


「西洋では結婚式の後、新居の前でこのように花嫁を抱いて中へ入るのです」

「もう、新居に入っていますけど」


 宙子のあきれた声に、忠臣は涙の痕も乾きにやりと笑う。


「だから寝室まで、このまま向かいます」


 そう言うと、居間を出て階段をのぼり始めた。不安定な横抱きにされ、ただでさえ怖いのに、忠臣が階段をのぼるたび上下に揺さぶられた。宙子は落とされまいと忠臣にしがみつく。


 そして少々乱暴な忠臣の行いに怯え、これから起こることについて宙子は心配になってきた。


「あの、優しくしてくださいね」


 宙子の切なる願いに、忠臣はなんとも艶のある笑顔を張り付かせる。


「本当に、宙子さんは私を煽るのがお上手で」


「えっ、煽っていませんけど。というか、煽るってどういう意味ですか」


「これから、たっぷり教えて差し上げますよ」


 耳元で甘くささやかれ、宙子の心の臓は寝室でこれから行われるであろうアレを思い、ぎゅっと期待と不安に縮んだのだった。

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