第三章

第一話 冬の朝


 師走も半分が過ぎ、寒さが段々と身に染みる季節となってきた。洋館の応接間には暖炉があり、円筒状の煙突を各部屋にめぐらせ、余熱で暖をとる仕組みになっている。古賀が言っていたセントラルヒーティングだ。


 朝の食堂もこのおかげで寒くはなかった。


「やっとおまえらが睦み合ってくれたおかげで、俺もちょっとは自由に動けるようになったってもんよ」


 朝食をとる宙子の足元で、黒い猫が人間の言葉をしゃべっている。昨晩も忠臣と睦み合っていた宙子の顔は赤らみ、ちらりとマキを見るがマキはすました顔で控えていた。


 小黒に憑かれている黒猫は、小梅が用意してくれた魚の身を美味しそうに食みながら口をつぐむ気配がない。


「まあ毎晩励んでくれるから、猫を依代にできるようになったのはでかいよな」


「んっ、んんっ……」


 忠臣が咳払し、宙子のフォークからはスクランブルエッグが零れ落ちた。


「若殿さま、喉の調子でもお悪うございますか? 生姜湯でもお持ちしましょう」


「……いや、マキ、大丈夫だから」


 小黒の声は、宙子と忠臣にしか聞こえていない。それでも、ふたりはこれ以上小黒にしゃべられると羞恥に耐えられそうになかった。


 忠臣とはじめて結ばれた日より数日たったころ、ふらりと黒猫が洋館に迷い込んできた。嵯峨野家では、化け猫の伝説があるので猫を飼うことは禁じられている。誰かの飼い猫ではなく野良のようだった。


 痩せていたので追い出すのもかわいそうに思い、小梅と宙子はこっそりその黒猫に餌をやっていると、それからしばらくして、黒猫がしゃべり出したのだ。


「俺だよ、俺。小黒だよ。力がついてきたから昼間はこの黒猫に憑くことにしたから。そうしたら、宙子と直接話せるだろ」


 宙子は腰も抜かさんばかりに、驚いた。小黒の説明によれば、昼間猫になり宙子の傍にいれば守ることもでき、なおかつ癒しの力ももらえる。一石二鳥だと得心していた。


「だから宙子、俺を思いっきりかわいがれ」


 ということで、宙子は暇さえあれば小黒を膝にのせ撫でてやっているのだが、忠臣はおもしろくないようだった。


 宙子は赤面しつつも朝食を食べ終え、玄関に小黒を胸に抱き見送りに行くと、「おい、宙子。口にパンくずついてるぞ」そう言うとざらりとした舌で口元をなめられた。


「小黒、それは私の役目だ」


 忠臣は食堂にいるマキに聞こえないよう、ぼそぼそと黒猫に向かって文句を言う。


「はあ? 嫉妬かよ。肝の小せえ奴だな。いいじゃねえか、俺が宙子とべたべたしたら、それだけ力が回復すんだから。また玄生は宙子を狙ってくるぞ。宙子の力に、あいつ気づいてるだろうし」


「それはそうだが、宙子さんが嫌がっている」


「嫌がってねえよ。なあ、宙子」


 猫と夫の言い争いに、どう対処していいか宙子にはわからない。宙子にしてみれば、中身が小黒だとはいえ猫をかわいがっているつもりしかなかった。


 忠臣の姿の小黒には心をかき乱されたが、あれはあくまでも忠臣の姿だったからだと今では確信できる。


 宙子は忠臣のネクタイが歪んでいるのに気がつく。最近、ネクタイの絞め方を教えてもらい、今朝も宙子がひすい色のネクタイを選び結んだのだか、忠臣ほど上手に結べない。


 すっとネクタイに手を伸ばし、形を整える。


「忠臣さん、早く行かないと」


 宙子に促され、忠臣は猫の小黒をにらみつつハンカチで宙子の口を拭うと、対抗するように濃厚なキスをして外務省へ出仕していった。


 忠臣の仕事量を増やしていたイギリス船舶の事故も裁判が終わり、近頃では帰宅も早ければ休日もある。夫婦だけの時間が増え、穏やかな日常を過ごせるようになったが、玄生の呪いは何の解決もしていない。


 とにかく小黒の力が復活し、結界を張れるようになれば一安心だが、宙子には危惧することがあった。忠臣も気づいているだろうが、忠臣がこれからずっと日本にいるとは限らないということだ。


 公使として外国に赴任することはまだ決まっていないとはいえ、これからありうる話だった。


 居間の長いすに座り、マキが台所に行ったのを確認してから宙子は小声で問いかける。


「小黒、結界ではなく呪いをとく方法はないのですか?」


 小黒の耳がピンと立つ。


「おまえは、そんなこと気にしなくていいんだよ。俺らに、守られとけ」


 頼もしいことを言われても、体が猫である。しかし今は、猫の言うことを聞いておく。


「小黒がこんなに、献身的に嵯峨野家を守ってくれるということは、よっぽど飼い主であった千鳥さんに恩があるのね」


 宙子が感心して小黒の頭を撫でると、金の目を細め気持ちよさそうにする。


「まあな」


「千鳥さんはお優しい方だったのでしょうね。一体どんな、恩を受けたのですか?」


「千鳥は……、思慮深く慈愛に満ち家臣からも慕われる奥方だったさ。夫の晴信との仲もよくてな」


「まるで、菩薩さまのような方ですね」


 そのような賢夫人と同じ力を持ち、見た目だけでも似ていることに、宙子は面映ゆくなる。小黒がそれ以上千鳥について語ることはなく、宙子はもう一つ気になっていたことを問う。


「あの、嵯峨野家は千鳥さんのお子さんが継いだのですよね。ではどうして、龍崎の系統のわたしに同じ力が現れたのかしら」


 小黒は閉じていた目をめんどくさそうに開けて、宙子を見る。


「元々龍崎家は、からから渡ってきた呪術師の家系だとか噂されてた。代々不思議な力を持ってるものが産まれてたからな。だから、直系の青山の血に同じ力が顕現したんだろ」


「なるほど。千鳥さんが癒しの力で、玄生は呪術を操る。じゃあ、高昌さんにも何か不思議な力が……」


 毒殺された龍崎高昌も何か力を持っていたのかもと、宙子は考えたのだ。


「若奥さま、そろそろ母屋にいきませんと」


 マキが居間に入ってきて、宙子に告げた。


「そうね、お待たせしているかもしれないわ」


 宙子は小黒との話を切り上げ、いそいそと母屋へ向かう準備を始めた。朝の挨拶は、仏間と表の大殿さまだけになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る