第二話 大殿さま

 由良は鹿鳴館の話をしてから会うこともなく、数日前から大磯の別荘へ行っていた。なんでもお玉は風邪をこじらせ実家へ療養に帰り、由良も体調が悪いと言い出したのだ。


 病気を奥に持ち込んだことが心苦しく、大磯に行っているのは忠臣には内緒にしてほしいと由良からの言伝だと、マキから聞いた。


 血のつながらない息子である忠臣に気兼ねしている由良を、気の毒に思った。


 由良の息子の正臣は学校があるので、母親について行かず奥で生活をしていた。時々、洋館に遊びに来るようになり小黒を珍しがり遊んでいる。子供は好かんと、迷惑そうではあるのだが。


 宙子が待たせている相手は、大殿さまだった。渋皮煮を届けて以来、障子は開けて挨拶できるようになっていた。


 ある日の朝、宙子が挨拶をしていると、冷たい風が吹きつけ大殿さまが咳込み始めた。冬になると空気が乾燥して、咳がひどくなると女中が薬湯を煎じながら宙子に言った。


 その台詞を聞き、僭越ながらと居間に上がり咳が止まらぬ大殿さまの背中をさすってみた。宙子の力で楽になればと思ったからだ。


 宙子の力は布越しでも効くのか、大殿さまの呼吸が落ち着いてきたのだ。それから、廊下ではなく室内に入れてもらえるようになり、挨拶だけで終わらず、話し相手になったり肩をもんだりする間柄になっていった。


 最初は怖かった大殿さまであったが、案外お茶目なところもある人で冗談を言って女中や宙子を笑わせることもある。


 宙子が一番楽しみだったのは、忠臣の子供の頃の話だった。


「そなたらが、湯島の博覧会で会っていたとわかって得心したわ。あやつ、博覧会に毎日通っていたのは、宙子にまた会えると思っていたのではあるまいか。そう言えば、かわいい女の子に会ったと楽しそうに言っておったのを思い出した」


 そう聞かされた時は、まさかと思った。湯島での出会いは、結婚の口実でしかないと思っていたのだ。


 幼少の忠臣が、宙子に淡い好意を寄せていたのであればうれしい。身も心も夫婦となった今になって、胸がときめくのだった。


 そういう貴重な話を大殿さまから聞いたお礼とまではいかなくても、外務省での仕事ぶりや忠臣から聞いたイギリス時代の話を宙子は語るのだった。


 成人した孫息子と祖父ともなれば、会話や近況報告をわざわざするものでもないらしく、宙子の話に大殿さまは熱心に耳を傾けていた。


 いそいそとマキを従え母屋へ挨拶に向かうと、その日の大殿さまは神妙な顔つきをして宙子を待っていた。


 どこか具合でも悪いのかと思い、挨拶を終えて声をかける。


「お加減いかがですか? 今日は、一段と冷え込みます」


「いや、最近は体調もよい。よいから、わしの頭がはっきりしている間におまえに語っておきたいことがある」


 脇息に寄りかかるわけでもなく、正座をして居住まいを正す大殿さまに、宙子も自然と背筋が伸びた。最近はすっかり好々爺のような大殿さまが、大勢の家臣を従えていた大名としての威厳を取り戻したようだ。


「大事なお話でしたら、わたしより若殿さまにお話になった方がよろしいのではないでしょうか」


 宙子が遠慮すると、大殿さまは首を振る。


「忠臣には酷な話なので、そなたが代わりに聞いてくれ。あれの姉と妹のことだ」


 野犬に食われて亡くなったという忠臣の姉と妹。玄生の呪いで亡くなったことを、宙子は知っている。


「忠臣が外国とつくにに行き、数年後のことだ。六つになる妹の華江はなえがある夜、乳母が目を離したすきに死んでいた」


 宙子は、大殿さまの口から出る言葉に身構える。


「あたりは血の海で首筋には獣に食いちぎられたような跡があり、とても正視できるような状態ではなかった。それなのに母の由良は半狂乱で血まみれの華江を抱きかかえて、頬ずりをする姿にみなはむせび泣いておった」


 話を聞いているだけの宙子でさえ、目頭が熱くなった。あのはかなくも弱い由良が、子を亡くして錯乱するさまが容易に想像できた。母親にとって子を亡くすということは、己の死よりもつらいこと。


 宙子の母も姉の死によって、正気を保てなくなった。そう考えれば、由良の方が心根が強いとも言える。


「乳母や姉の弥生は、獣の鳴き声も物音も何も聞いていないという。やはり、我が家を呪っている化け猫の仕業ではないかと」


 結界が破れたことにより、玄生の化け猫がこの奥に侵入し華江を襲ったのだろう。


「華江と正臣の面倒は、弥生が由良にかわりずっと見ていたのだ。嫁入り先も決まっていたのだが、二人がもう少し大きくなるまではと。早く嫁に行っていれば死なずに済んだのかもしれん」


 大殿さまの宙子を見つめる瞳が哀惜の色にあふれ、宙子の胸を締め付けた。しかし、先を聞かねばならない。


「華江さんが亡くなって、弥生さんもお亡くなりになったのですか?」


「ああ、奥は化け猫の呪いにおののき、暗く沈んでおった。その頃には、信が嫁ぎ先から戻ってきていたがあれも随分ふさぎこんでいた。そんな中すがるように、弥生は晴信公の正室の遺品である稔侍仏をよう拝んでおった。」


 晴信公の正室というと千鳥だ。


「しかし弥生もある朝、奥の庭で血まみれになって倒れているのがみつかった。華江と同じように首筋が食いちぎられていた。不思議なことに弥生の部屋に祀られていた稔侍仏が厨子の中から消えておった。仏は弥生を守ってはくださらなかったのだ」


 大殿さまは悲しみに押しつぶされるように、脇息にもたれかかった。


「まあ晴信公の正室は龍崎高昌の妹だ、兄を殺した逆臣の子孫など守ってはくださらなかったのだろう」


 自嘲気味に皮肉を言う大殿さまに、千鳥の飼い猫が嵯峨野家を守ってくれていることを言いたかった。しかし言ったところで、華江と弥生が戻ってくるわけでもない。


「そなたも、気をつけよ。二人は奥で殺されたが、化け猫はどこに潜んでいるかわからんのだ」


 心配してくれる大殿さまの手を、宙子はそっと握る。


「大丈夫ですよ。それに、化け猫ではなく野犬の仕業なのかもしれませんし」


 そう言って微笑む宙子に、大殿さまは頭をさげた。


「最初、そなたを邪険にして悪かった。留学前には素直であった忠臣が、帰国した途端何を考えているのかわからん行動ばかりして、わしも戸惑っておったのじゃ。その戸惑いをそなたにぶつけてしまった」


 大殿さまはこのことを言わねばならぬと、ずっと思っていたのだろう。


「おあいこです。わたしも大殿さまのことを偏屈な方だと思っておりました。本当はこんなにお優しい方だったのに」


 祖父と孫の嫁は、顔を見合わせ微笑み合ったのだった。


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