第十六話 セレナーデ

 アリスとため池のほとりで語らい、宙子は心を決め忠臣の帰りを待っていた。置時計が夜の十時をすぎたころ、玄関の扉が開く音がした。


 出迎えた宙子に忠臣は、「ただいま帰りました」と言い横を素通りして居間へ入る。


 先ほどまで暖炉の火がついていたので、室内は暖かい。忠臣は上着をぬぎ、後からついてきていた宙子を振り返った。以前ならばその上着を宙子がクロークになおしていたのだが、今は抱えたまま。忠臣は固く閉じていた唇を、ゆっくりと開いた。


「お話があります」


 宙子に有無を言わせぬよう、忠臣は畳みかけるように話し始めた。


「大磯に、嵯峨野家の別荘があります。できるだけ早いうちに、荷物をまとめてそこへ行ってください。マキと小梅を付けます。アリス先生は頻繁には通えなくなりますが、月一回でも泊りがけできていただくように、手配しましょう。あなたは、ここと変わらない生活を……」


「待ってください」


 宙子は忠臣の意図がくみ取れず、理解が追い付かない。せっかく、アリスに話を聞いてもらい、忠臣の思いに触れようとしていたのに。手を伸ばすことさえ許されず、背中を向けられたようなものだ。


「待てません。時間がないのです」


「それは……、離縁ということですか?」


 自分の発した『離縁』という言葉に、心が黒く塗りつぶされる。それでも、真実を探ろうと忠臣の琥珀色の瞳の奥を見つめたのだが、目線をそらされた。


「そうなっても、致し方ありません」


 忠臣の感情を抑えた冷たい声が夜のしじまを破り、宙子の心も切り裂いた。


 やはり、わたしは愛されていたわけではなかったのだ。嵯峨野家のために必要だった花嫁。役にたたないのだから、追い出されても文句は言えない。


 でも、わたしは忠臣さんといっしょにいたい。いたいのに、その願望を口にするのはあまりにも怖い。一番の望みがかなえられないのなら、せめて違う望みをきいてもらおう。


「わかりました……。最後にひとつ、お願いを聞いてもらってもいいですか?」


「なんでも言ってください。多少無理なことでもあなたのためなら」


 紳士の顔に戻った忠臣に、宙子は薄く笑う。


「セレナーデを弾いていただけますか。忠臣さんの音が聞きたい」


 宙子の願いがよほど想像を超えたものだったのだろう。忠臣は狐につままれたような顔をして、「セレナーデ」とつぶやくと、食堂へ向かった。


 灯りの灯ったランプを持ってきて、ピアノの上におくと長椅子に座る宙子へちらりと視線を走らせる。忠臣はネクタイをゆるめ、そのまま窓際のピアノの前に座った。


 鍵盤の上にそっと指をおくと、低くささやくような音が静かに流れ出す。そして、ピアノが突然歌い始めた。声に出して歌っているのではなく、忠臣がピアノの音を通して歌っているのだ。


 その歌は、たしかに愛の歌だった。胸を焼くほどの恋焦がれる歌に、宙子の胸は切なく千々に乱れ締め付けられていく。


 音には自分の気持ちが現れる。忠臣の言動とは裏腹な思いが、ピアノによって露呈されたのだ。


 どんなに宙子を遠ざけようとしても、忠臣の言葉にできない宙子を求める思いが、音からあふれ出していた。


 セレナーデは愛を語りつくし、最後の音が夜の闇にはかなくとけると、忠臣は大きく息を吐き出す。意を決したように膝で拳を握ると、振り返った。すると、美しい切れ長の目は大きく見開かれる。


「どうして、泣いているのですか」


 何も言葉が返ってこないので、忠臣は立ち上がり宙子の前にひざまずき、頬に触れようとしたが……やめた。伸ばされた右手は、ぱたりと忠臣の膝の上に落ちる。


「あなたは、涙までも美しいのですね」


「美しくなんか、ないです。忠臣さんを疑うようなわたしなんて……」


 そうだ、忠臣の思いは明らかだったのだ。言葉の強さに目がくらみ、ずっと宙子に向けられていた忠臣の愛が霞んで見えなくなってしまった。


「わたしなんて……と言うべきは、臆病な私の方だ」


「臆病?」


「私は、あなたに触れるのが怖い。私の醜さが、あなたに伝わりそうで」


 忠臣は宙子の隣に、そっと腰をおろした。


「帰国して嵯峨野家の人脈を使い探し出したあなたは、鏡子と姉の名前で呼ばれていた。なんとなく、事情は察しました。そして癒しの力を利用する目的を、不幸な境遇から救うという名目に都合よくすり替えた。ずるいでしょ?」


 忠臣は宙子の顔を覗き込み、同意を求めた。宙子は首をふる。


「わたしも似たようなものです。母から逃げるため、忠臣さんの手を取った」


「そうですね、あなたは私に関心を持っていないようでした。まあ、華族の結婚など政略結婚がほとんどですから、愛のない結婚は特別なことじゃない」


 忠臣は、ふっとさみし気に笑う。


「姉と妹のようにこれ以上犠牲者を出さないために、一刻も早くあなたと体を繋げなければと思う反面、心から愛し合いたかった」


 心から愛し合いたい……。


 だから忠臣は初夜に宙子の元に訪れず、お互いのことを知ろうと言ったのか。


「うぬぼれでなければ、あなたとは徐々に心が通じ合えたと思っていました」


 宙子はランプのオレンジ色の灯りを受け、愁いに染まる忠臣の顔に嘘偽りのない心を差し出す。


「はい、心からお慕いしております」



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