第十五話 気分転換
「宙子、どうしましたか。今日は全然やる気がないですね」
アリスの叱責が、ぼんやりしていた宙子に飛ぶ。家庭教師は先週から再開されていた。
「ご、ごめんなさい。どこからでしたでしょう」
宙子は慌てて、開いていた洋書の上に視線をさ迷わせた。
「もういいです。今日はやめておきましょう」
「いえ、大丈夫です。続きをお願いします」
食い下がる宙子を、アリスは困った顔をして見る。
「いつもは、ホームワークの単語をすべて覚えてくるのに」
あのことがあってから、宙子と忠臣は必要最低限の会話しかせず、二人で過ごす時間もなくなった。寝室にこもり勉強する時間は増えたが、忠臣といっしょに勉強していた時ほど進まない。
何も弁解せずうなだれる宙子に、アリスは明るく声をかけた。
「ちょっと、お散歩しましょうか。ええっとこういうのを……気分転換です」
アリスが宙子の返事も聞かず居間から出て行ったので、従うしかない。外へ出ると空は高く晴れ渡り、ため池へ向かう下り坂をアリスはのんびりとした歩調でおりて行く。
もうすぐ師走になろうかという気候である。肌寒く冷たい風が宙子の頬をなで、重たかった頭が幾分すっきりとする。
かつて江戸城の外堀であったため池はすっかり水位が下がり、小川のようになっていた。そのほとりに葉を落とした栗の木が何本も生えている。ここで正臣や使用人たちが栗を拾ったのかと宙子は思った。
思ったと同時に、忠臣が渋皮煮を頬張った時の笑顔まで思い出す。
「ここ眺めがいいですね。ちょっと座りましょう」
アリスは洋服に土がつくのもかまわず、腰を下ろす。宙子もその隣に座った。
小川に陽がさし、風がそよぐたび水面は魚の鱗のようにきらめいた。宙子は郁子の家を訪れてから外出しておらず、大きく息を吸い体の隅々まで新鮮な空気を送り込む。
「外の空気は美味しいでしょ」
「はい、最近ちょっと塞いでいたので、特にそう思います」
マキや小梅には言えない気持ちを、アリスには自然と告白できた。
「わたしが日本にきて十年になりますけど、日本の女性はがまんがお上手で感心します」
「そう、ですね」
宙子は、何の気なしにあいづちを打つ。
「でも我慢しすぎると、自分の言葉でしゃべれなくなります。宙子もそうなっていませんか?」
「我慢というか、自分がどうしたいのかわからないのです」
「それは、ミスターサガノとのことですか?」
「はい、仲たがいしてしまって、忠臣さんが何を考えているのか、わからなくて……」
冬の柔らかい陽を浴び冷たい風に吹かれていると、するすると胸の奥底に沈めた思いが口をついた。
何度もあの夜のことを思い出す。生霊を追い払ってのち、忠臣は宙子に弁明しようとしていた。それなのに最後には、まるで宙子に嫌われようとしているかのように突き放したのだ。
「日本の男性は、なかなか自分の思いを言葉にしませんから。ミスターサガノも英国式紳士ではありますが、マインドはサムライですね」
アリスの忠臣に対する印象が言い得て妙なので、宙子は忍び笑いをもらす。
「愛を疑った時の、とっておきの魔法を教えましょう」
アリスの青い瞳が、ため池の水面のようにキラキラと輝いた。
「セレナーデを弾いてもらいなさい。セレナーデは恋人のいる窓辺で奏でる、愛の歌なのです」
「ピアノで、ですか?」
宙子は半信半疑で、訊ねる。
「宙子も琴を弾くのですから、わかるでしょ。音楽には気持ちがこもると」
そういえば、琴の先生はよく宙子の音色に耳を傾け、その日の宙子の気分をあてていた。あなたの弾く琴の音は素直だと言って。
「まあ、騙されたと思って試してみて。案外、彼の本音がわかるかもしれませんよ」
いたずらを仕掛ける子供のような表情で、アリスは片目をつむった。
「アリス先生も、旦那さまにセレナーデを弾いてもらったのですか?」
「もちろん。彼はセレナーデを弾いてプロポーズしてくれました」
「まあ、素敵ですね」
忠臣の求婚の言葉に、愛は含まれていなかった。結局のところ、宙子は先祖の因縁や癒しの力を利用されたとか、そういうことはどうでもいいのだ。
ようは、忠臣の愛を確かめたい。確かめたいということは、それだけ宙子も忠臣を深く愛している証拠だ。
「結婚生活を長く続けたいのなら、愛を語らなければ。それができないなら、何度も弾いてもらいなさい。セレナーデを」
アリスの宙子にかける声音は冬の日差しのように優しく、宙子の耳の奥にいつまでもとどまっていた。
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