第八話 守り刀
母は帰宅すると鹿鳴館での興奮が嘘のように落ち着き、疲れたと言って寝てしまった。
その間に帰ろうかと思ったが、起きて宙子がいないとまた喚き散らすのは目に見えている。
仕事から帰宅した父も宙子の姿を見て驚いていたが事情を説明すると、諦めたように深いため息をついた。
「母さんはこの間嵯峨野家から帰ってから、それはもう機嫌が悪くてな」
「いったい、どういうこと?」
父の疲れ切った言葉尻に、胸が騒いでどうしようもない。
「おまえが立派な母屋ではなく、小さな洋館に押し込められていると怒っていた。おまけに、女中のように食事の世話までして。身分の低い青山家をあなどっての所業だと、泣いていたよ」
宙子はあまりのことに、言葉を失う。あの日母は、宙子の生活を見て満足していたと思っていた。でも、思い起こせば別れ際に言われた『いつでも帰ってきたらいい』と言った母の心境は、こういうことだったのかと妙に納得した。
宙子が良かれと思ってしたことが、ことごとく母の期待を裏切る結果となったのだ。
母にとっての女の幸せは、壮麗な屋敷の奥に閉じこもり女中にかしずかれ子を産むこと。しかしそれは、宙子が思い描く幸せではない。
「お父さま、それはお母さまの勘違いです。わたしは、とても幸せに暮らしているのです」
宙子の真実の心を告げても、父は憐みの笑みを浮かべる。
「おまえは姉の代わりを、辛抱強く続けてきた優しい子だ。本当のことは言えないのだな。落ち着くまでこの家にいなさい。母さんはおまえが心配で夢見が悪いと言い、調子を崩しているのだ。傍にいてやってくれ」
母が傍にいてほしいのは、姉の鏡子であって宙子ではない。それが父にはわからないのだ。
その日の夜遅く、青山家に嵯峨野家の家令田辺がやってきた。マキが用意した宙子の喪服や着替え、食べ物などを届けてくれたのだ。
「若殿さまはご葬儀が終われば、直ちにお帰りいただくようおっしゃっていました」
眠りから覚めていた母は、田辺を冷たく突き放す。
「忌中ですので、お正月の行事に出させるわけにはまいりません。松の内までは我が家でお預かりいたします。結婚以来、帰っておりませんでしたからいい機会ですわ」
宙子は身内の不幸という方便を、あの場で口にした自分を呪う。母に鹿鳴館から連れて行かれる理由が、それしか思いつかなかったのだ。
松の内までといえば、十日以上家を留守にすることになる。ちらりと母の横に座る家長の父に視線を向けても、押し黙っているだけ。母が言い出したことを、決して曲げないとわかっているのだ。
「しかしそう長くご実家にいられるのも、不都合ではありませんか……」
田辺は忠臣にきつく言われてきたようで、宙子の帰宅を促す。しかし母は、頑として受け入れなかった。
忠臣は帰宅した田辺から報告を受け、珍しく声を荒げていた。
「松の内までなど、長すぎる! きっと、身内の不幸というのも本当かどうかわかったものじゃない」
古賀は宙子たちが鹿鳴館から出て行くと、母子の騒動を見ていた人に様子を聞いたそうだ。それによれば宙子の母は、華族の奥方がすることではない、娘に恥をかかされたなどとわめいていたらしい。
――まさか、母親が宙子をかっさらうとはな。
小黒が忠臣の中で、ため息をついた。
――あの母親の性格を把握していたのに、この窮地を予見できなかった自分が腹立たしい。
――起こってしまったことで、自分を責めるな。これからのことを考えろ。
「そうは言っても!」
忠臣の憤りは心の声に留めておけず、洋館の居間に響いた。
「若殿さまのお怒りごもっともでございます。明日にでも、もう一度青山家に伺います」
田辺は床に平伏して詫びを入れる。
「いや、そうではない。しばし待て」
――この機に乗じて玄生本体か使い魔か。どちらかが、襲ってくるかもしれない。小黒、宙子さんの傍にいられないのか。
――依代であるおまえから、そうそう離れてられないんだよ。俺だって、宙子の傍にいてやりたいけど。
――それならば、何かこう魔除けになるようなものは……。
忠臣は長椅子から立ち上がると、まだ洋館にいたマキを呼んだ。あわてて台所から出てきたマキに問う。
「マキ、宙子さんが嫁入りに持って来た守り刀はどこにある? たしか青山家に代々伝わる刀と聞いている」
「守り刀ですか。二階の納戸にしまってあるはずです」
忠臣はそれを取ってくるように言うと、小黒が口を挟む。
――そうだ! 千鳥の稔侍仏はどこにある。あれがあれば。
「稔侍仏……。田辺、我が家に伝わる稔侍仏は今どこにある?」
田辺が言うには稔侍仏は姉の弥生が持っていたが、死後に行方知れずになったそうだ。
「すぐに、探してくれ。きっと奥の中にあるだろう」
稔侍仏と守り刀で、どこまで呪いを防げるかわからないが、忠臣は藁にもすがる思いだった。
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