第九話 魔を払う

 宙子の元に、守り刀と稔侍仏が届けられたのは大晦日であった。田辺は玄関先で宙子に風呂敷を渡すと、長居はせずにすぐに帰って行った。


 嵯峨野家で、正月準備に追われているのだろう。本来なら、宙子も正月三が日は忠臣とそろって親族や旧家臣の年賀を受け、忙しい正月を送るはずだったのだが。


 実家に閉じこもり外出もままならない。宙子は荷物といっしょに届けられた忠臣の手紙を、胸に抱く。


 手紙には松の内が明け宙子の帰りを待っている旨、届けられた稔侍仏と刀を肌身離さず持っている様に綴られていた。


 手紙をおき、五寸(約十五センチ)ほどの小さな稔侍仏を手に取る。姉の弥生の死後行方不明になっていた稔侍仏が、出てきたようだ。


 これがあれば、きっと玄生から守っていただける。


 この稔侍仏を拝んでいた弥生が殺されたという事実に宙子は目を背け、大事に袱紗に包んで懐に入れた。守り刀も身を守れるかどうかわかないが、帯の隙間に差しておく。


 千鳥さま、どうかお守りください。宙子は心の中で祈り、手を合わせた。


 稔侍仏のおかげか、宙子の身に何も起こらず三が日は過ぎた。嵯峨野家には忌中としていたが、母はお構いなしに正月の行事を執り行い、若水で雑煮を作り福茶を立てた。親戚が年賀に訪れたが、外聞もあるので宙子は自室に閉じこもるしかなかった。


 あと少しで松の内も明ける。あれ以来母はバザーの日のような錯乱も出ずに、宙子が体をもんでやると悪い夢も見なくなったと喜んでいた。


 このまま何事もなければ家に帰れる。忠臣に会えぬ寂しさを抱え、枕を濡らすこともようやく終わると思っていた矢先、母が突然体調を崩したのだ。


 微熱が続き、胸が苦しいと言い出した。夢見も悪いらしく、しきりに鏡子の名を呼ぶ。


 医者に見せても、はっきりとどこが悪いと言い切らない。体よく心労が重なったのだろう。娘が看病してあげればよくなると、適当なことを言われる始末だ。


 母がこの状態では、宙子は嵯峨野の屋敷に帰れない。


 年老いた婆やひとりで、母の看病や家事は無理だ。そう嵯峨野家に手紙を送ると、すぐにマキが駆け付けてきた。


「看病は代わりに致しますので、若奥さまはどうぞお屋敷にお帰りください。若殿さまがもうすぐ神戸へ、二週間の出張にお出になられますので」


 忠臣が出張……。会いたい。忠臣に会いたいけれど。


「マキさん、心遣いはうれしいけれど。あなたはあくまでも、嵯峨野家の使用人です。うちのことまで頼めないわ」


 宙子にそう言われては、マキも渋々帰るしかない。京助も帰るように言ってくれたが、宙子は忠臣がいない家に帰っても仕方がないと笑って答えたのだった。


 忠臣さんが、神戸から帰ってきたら相談しよう。嵯峨野家の力を借りることになるかもしれないが、母をもっといい医者に見せるか、使用人を新しく雇うか。


 とにかくわたしは、ひとりではない。


 母がうなされ何度も、「あなた、本当に鏡子なの?」と問われ「もちろんよ、お母さま」と平気な顔をして返しても、心が痛むことはなかった。


 母に認められなくても、他に自分のことを理解し認めてくれる人がいる。帰る場所がここ以外にある。そう思うと腹の底に力が入り、ぐっと根をはり踏ん張ることができた。


 それから看病をし続けても、いっこうに母の具合はよくならない。もう二週間も過ぎようかという夜のことだった。母がうわ言で宙子を呼んだ。


「鏡子、あなたの持っている稔侍仏に手を合わせたいの。悪い母だったって最後に仏さまに謝りたい」


 母は痩せて骨ばった手を、宙子の手に重ね懇願する。ちっとも宙子を見ずに、愛してくれなかった母であっても自然と視界が滲む。


「最後だなんて、言わないで……」


 瀕死の母の願いに宙子は懐から稔侍仏を出して、母の手に握らせた。


 これくらいのことで、母の気が休まるなら。母は小さな仏を両手にはさみ、手を合わせる。一瞬安らかな顔になったが、直後激しくせき込み始めた。


 枕もとの水差しを見ると、空っぽだ。宙子は水差しを持って台所に急いだ。闇に沈む台所で水がめから水を汲んでいると、ふと疑念が頭をよぎる。


 わたし、お母さまに稔侍仏のことを話したかしら。いいえ。話してないわ。誰が、お母さまに教えたの? まさか、操られている……。郁子さんの生霊の時のように。


 宙子の思考を遮るように、突然背後から獣の唸り声が聞こえてきた。


 途端、持っていた水差しは、土間に落下して華やかな音を立てて割れた。宙子の心の臓はやぶれそうなほど、体の中でのたうち回る。


 まさか……。まさか……。忠臣さんの姉妹を襲った化け猫が、とうとうわたしを……。


 宙子はたった後ろを振り返るだけで、夜が明けるほど時がかかったような気がした。恐怖に視界が揺れ、土間の隅にうずくまる黒い影が陽炎のように立ちのぼる。


 黒い影が発する妖気に蹴落とされるように一歩下がると流しにぶつかり、体を支えるため手をつく。木製の流しの湿気を帯びる冷たさで、指先が震える。その震えが一気に全身に回った。


 総身が泡立つ宙子の眼前で、影の先端に切り込みが入り、大きく二つに割れた。よく見ると、割れた裂け目の両側には鋭い牙が、びっしりと並んでいる。これは、化け猫だ。玄生なのか使い魔なのかわからない化け猫は、獲物を狙うようにぴたりと宙子に的を定めた。


 稔侍仏を持っていない。このままでは食われる。でも、死ぬなんていや。


 宙子は帯の間に挟んでいた守り刀を引き抜き、胸の前でしっかりと刀の柄を握りしめる。


 宙子の命に脈々と流れる血、青山のすべての血脈に願い奉る。命、救い給え!


 襲い来る化け猫に、宙子は力いっぱい刀を突き立てた。その瞬間、獣の咆哮が夜のしじまにとどろき渡り、獣の断末魔は徐々に減衰していきもとの静寂を取り戻した。


 耳が痛くなるほどの静けさに、安堵とともに疲労を感じ宙子は力尽きその場に崩れ落ちた。


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