第十話 迎え

「嬢さま、このようなところで……」


 宙子は揺り起こされると、朝の澄んだ空気の中で婆やが皺だらけの顔で見下ろしていた。あたりを伺うと、むき出しの刀身がボロボロに欠けた守り刀が宙子の横に落ちている。


 昨日ここで起こったことは、夢ではなかった。ということは、宙子は化け猫を退治したのだ。それが、玄生ならばもう襲われることはないが、使い魔ならばまだ安心はできない。今それをたしかめる手段はなかった。


 母はどうしているのだろう、郁子のように衰弱しているのでは?


「お母さまはどうしているの?」


「おひいさまは、もう起きておいでですよ。気分がよろしいと」


 宙子は婆やの言葉が信じられず、すばやく起き上がり母の元へ急いだ。


 障子を開けると、昨晩息も絶え絶えだったのに母が床の中で身を起こしていた。床の傍らに膝をつくと、母はしげしげと宙子の顔に見入る。


「あら、宙子。あなたどうして我が家にいるのですか」


 ……宙子? 母が鏡子ではなく、たしかに宙子と呼んだ。


「嵯峨野の家をむやみにあけるものではありません。まったくあなたという子は、昔から落ち着きがなく、うかつだから」


 手厳しく宙子をしかる母は、姉の鏡子が亡くなる前の母そのものだった。


「お母さま、お姉さまのことは覚えている?」


 宙子は恐々、姉のことを確認せずにはいられない。もしまだ、母の中で姉が生きているのなら何も変わっていないことになる。


「鏡子が亡くなって、だいぶ経つではないですか。そう何時までも亡くなった子のことを思っていたら、成仏できるものもできなくなるわ」


「そう、ですね……」


 母がすっかり正気に戻っている。宙子の苦悩など知らぬ顔をして、勝手に前を向いて進みだした。


「なんだか、最近悪い夢ばかり見てね。夢の中で鏡子があれこれ言ってきたのよ。宙子のことを言っていたような気もするけれど。わたくしが気弱だから、鏡子に心配されたのね、きっと」


 夢の中に出てきた鏡子とは、玄生の使い魔だったのだろう。その使い魔が消える刹那、母の幻想もいっしょに持って行ったのかもしれない。


 正直、母の変わり身に宙子は喜ぶことができない。名前を奪われた宙子の数年を返せと、なじってやりたかった。


 でも、数日寝込んでいた母はすっかりやつれ、白髪も増えて宙子の憤りを受け止めるだけの気力はないだろう。いつか母の気力が戻れば、宙子の不満をぶちまけてやりたいとも思うが、そう思い続けること自体虚しい。


「さあ、お腹すいたでしょ。今から朝餉あさげの準備をしますから」


 宙子はそう言い残し、疲れているはずなのに心も軽く台所に向かう。これでようやく忠臣の元へ帰ることができるのだ。


 朝餉を終えると、父と京助はそれぞれ仕事と学校へ出かけた。宙子は嵯峨野家に帰る準備をしていると玄関が騒がしい。婆やが来客の応対をしているようだが、どうも揉めているようだ。


 何事かと玄関へ行こうとすると、宙子が一番会いたい人の声が聞こえてきた。


「だから、私は嵯峨野忠臣です」


「ですが……ですが……。華族のご当主が、供も連れずにいきなり。誰が信じられましょうや」


 宙子が慌てて玄関へ出ると、墨色のインバネスコートを羽織った忠臣の前に、子供ほどの背丈しかない婆やが立ちふさがっていた。


 婆やは忠臣と面識がない。それを抜きにしても、いつもきれいに整えられている髪が風に煽られたのかひどく乱れているので、婆やからしたらご当主にはとても見えないのは当たり前かもしれない。


「忠臣さん! 出張からお帰りになるのはまだ先ではなかったのですか?」


 突然現れた忠臣に驚きつつも、うれしさが先にたち、宙子はたたきに足袋のまま降りていた。途端、漆黒をまとった忠臣に、薄紅色の鮫小紋を着た宙子は抱きしめられる。


 夜に咲く桜のごとく重なり合うふたりの背後から、婆やの悲鳴が聞こえてきたが、聞こえないふりをして二人だけの世界に入り込む。


「あなたのことが心配で。さっさと仕事を終わらせました。船が品川についたら汽車に飛び乗り、新橋から人力車を走らせてきたのですよ」


 忠臣の大きく上下する背中を、宙子はさすってやる。この辺りの路地は入り組んでいるので、車夫がわからずひょっとして忠臣は車を降りて走ってこの家を探したのかもしれない。


 離れていた時間を埋めるように抱き合っていると、


「嵯峨野さま、このようなあばら家にようこそおいでくださいました」


 母の張りのある声が、たたきに立つふたりへ突き刺さる。


 宙子は忠臣の腕の中からあわてて抜け出すと、母が玄関に平伏して忠臣を迎えていた。


「お義母上は、もう体調はよろしいのですか」


 出張前には瀕死の状態だと聞いていた母が、このような状態で忠臣は驚きを隠せないようだ。


「ええ、すっかりよくなりました。玄関先で無礼にも足止めした宙子をお許しください。どうぞ、中へ」


 忠臣の慌てぶりとは対照的に、母は淡々と忠臣をもてなそうとしている。本当に憑き物が落ちたように、昔の厳しくも冷たい母に戻っていた。


「いえ、ここで失礼いたします。宙子さんを迎えに参っただけですので」


「そうですか、この母が不甲斐ないばかりに、娘の手を煩わせ申し訳ないことです」


 忠臣も母にここまで言われては、宙子を引き留めていた文句も言えないようだった。母にせかされ、宙子は自室に荷物を取りに行くと、後ろから母がついてくる。


「これは、あなたのものでしょ。返しておきます」


 母は袱紗に包まれた稔侍仏と守り刀を差し出した。


「お母さま、この守り刀はわたしを守ってくれたのです。これにはどんな由緒があるのですか?」


 宙子を何から守ってくれたのか。そう聞くことはしなかったが、母はすこし得意げな顔をする。


「さあ、昔のことは知りませんよ。でもあなたを守ってくれたのなら、よかった」


 姉の鏡子ではなく、宙子に向けられたあたたかい言葉。それですべてを帳消しにするには、あまりに些細な言葉だけれど宙子の中にすとんとそれが落ちていき、隙間をうめる。


「守り刀の刃が欠けていましたね。あなたに子ができたら、研ぐなり新調するなりしなさい」


「はい、そういたします」


 泣き笑いの表情を浮かべ宙子が答えると、母はひとつため息をついた。


「嵯峨野さまがあの調子では、子も早く授かりそうですね。初孫を楽しみにしていますよ」


 あれほど鹿鳴館では娘に恥をかかされたと怒っていた母の、あまりにも鮮やかな手のひら返しに、宙子は苦笑いをこらえるしかできなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る