第十一話 帰宅

 忠臣と宙子を乗せた人力車が、冬の冷たい風を受け軽快に走っている。震えるような寒さだが、宙子は吾妻コートを着ているのでそれほど寒くはなかった。


 最近白木屋が売り出したこのコートは、西洋の生地であるネルをつかっているのであたたかいのだ。


 人力車がようやく永田町に建つ、嵯峨野家の総門に近づいていく。すると、門から一台の人力車が出てきて、宙子たちとは反対方向の銀座の方角へ走って行った。


「あの人力車は嵯峨野家のものだ。誰か外出でもしたのかな」


 忠臣はそう言ったが、今、屋敷には大殿さまと叔母しかいない。使用人の誰かが人力車に乗って出かけたのだろうか。


 宙子は、ようやく数週間ぶりに我が家に帰り着いた。白緑色の洋館を見あげると、天頂近くにのぼる陽の光が眩しくて、目がくらむ。


 宙子の荷物を忠臣が手に持ち、色ガラスがはめ込まれた玄関の扉を開けた。


 忠臣より先に中へ入ると、扉の開く音を聞きつけマキが、ふくよかな体を揺らしながら奥から出てきた。


「まあ若奥さま! よくお戻りくださいました。母上さまのご容体はよくなられたのですか」


「ええすっかりよくなって。マキさんにはいろいろ心配をかけました」


「そのようなお言葉、もったいのうございます。結局何もできませんでしたし」


「いいえ、着替えや書物に食べ物を届けてくれたじゃないですか」


 宙子がマキを労っていると、今度は小梅が走って奥からやってきた。


「若奥さま! おかえりなさいませ」


「小梅さん、黒豆ありがとう。美味しかったわ。皺がぜんぜんよってなくて、つやつやしていて。今度皺のよらない炊き方教えてね」


「はい。もちろんでございます」


 ふたりの使用人と宙子が再会を喜んでいると、忠臣が痺れを切らせて三人の輪に割って入る。


「挨拶はこの辺で。とりあえず、中に入ってもいいかな」


「まあ、ご無礼いたしました。お荷物を若殿さまにお持たせするなんて」


 マキが忠臣の抱える風呂敷をひったくる。


「今、お茶の準備をいたします」


 小梅はまた走って、台所へ消えた。

 ふたりは居間で紅茶を飲み一息つくと、足元に黒猫がすり寄ってきた。


「さみしかったぞ。宙子。おまえに抱かれないと、落ち着かない体になってしまった」


 そう小黒が言うと、ぴょんと宙子の膝の上に飛び乗り体を擦り付けてくる。


「誤解を生みそうな言い回しをするな」


 宙子は小黒を抱きかかえ、その黒い毛並みに頬ずりしていると忠臣が嫌な顔をした。


「それより、宙子さん。ご実家では何事もありませんでしたか? 稔侍仏や守り刀は届けましたが、正直それで玄生を防げるかどうか疑わしかったのですよ」


 マキは台所に行っているので、忠臣は玄生の名前を口にする。


「それが、ですね……」


 実家で起こったことを、宙子はふたりに報告したのだが。


「なんと! そんな危ない目に合っていたなんて。やはり、強引にでももっと早く私が迎えに行っていれば。田辺やマキは私が行っては角が立つと言うので、今日まで我慢したのですが。こんなことなら……」


「おまえが行くと、話がややこしくなるだろ。絶対あの母親とひと悶着おこしてただろうし。今日は嫌に、大人しかったけど」


 あの時、小黒は忠臣の中にいたようだ。


「それも不思議なのだ。宙子さんをさらってでも連れ帰ろうとしたのだが、あっさりと帰してもらえた。まるで、お義母上は憑き物が落ちたようだった」


「あの守り刀で、化け猫を払ったら母の悪いものも消えたようでした」


 宙子は母の変わりようを説明したのだが、小黒は声を曇らせる。


「守り刀に残っている気配からすると、宙子が払ったのは、残念ながら使い魔だな。玄生じゃねえ。それにしても、あの刀に魔を払えるほど力はなかったはずなんだが」


「でも、実際に消えたのですよ。その代わり刃はボロボロになりましたけれど」


 洋卓の上には、稔侍仏と守り刀がおかれていた。


「うーん。長い年月を経たものには、力が宿るとは言うけど」


 小黒はまだ、納得しきれないように宙子の膝の上でじっとうつむいて考えている。その視線の先には、帯に刺繍された蝶が飛んでいた。


 小黒はその意匠化された鮮やかな蝶を捕らえるように、肉球でそっと撫でた。


「なるほどな。そういうことか。玄生を払う方法が見つかったぞ」


「本当か。それはどうすればいいのだ。正直、結界だけではこれから心もとない」


 忠臣が色めき立つ。忠臣も玄生の呪いを根源的に退治しないことには、外国に赴任することもできないと思っていたのだろう。


「まずは、刀だな。この家に晴信の刀があっただろ。あれなら使える」


「わが藩の初代晴信公の御刀、芳正よしまさは家宝だが」


「いいね、家宝。大事にされてた刀は人の念がこもってるからな。効くぞ。どこにある」


 忠臣の形のよい額に深い皺がよる。


「母屋の祖父に訊かないと。しかし、貸してくれるかどうか」


「そんなもん、お家の一大事なんだから、多少ぶっ壊れても貸してもらわないと」


「家宝が痛むかどうかは、大殿さまに伏せておいた方がいいんじゃないですか?」


 宙子は小黒に入れ知恵をする。武士にとって刀は魂そのもの。あの大殿さまならば、一族よりも刀を取りそうだった。


「宙子、いいこと言うな。よし、今からじじいのところ行くぞ。そしてそのまま、奥へ化け猫退治に出かけるとするか」


「どうして奥なのですか?」


「宙子さんが風呂場で襲われた時、風呂焚き婆を襲ったものがいたのです。その者は奥の者だとわかったのですよ」


 やはり、婆はただ気を失っただけではなかったのだ。


「奥に使い魔がいるか、玄生がいるか行ってみないとわからないけどな。さあ、鬼が出るか蛇が出るか」


 小黒の声には、愉快というよりも皮肉な響きが含まれていた。


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