第七話 鹿鳴館の客

 午前中は大変な賑わいだったが、午後になると幾分人出は落ち着いてきた。


「おや、鷹藤の奥方じゃなかと?」


 恰幅のよい見るからに身分のある男性に、声をかけられたが、鷹籐と嵯峨野家が治めた藩の名を言われ、宙子は自分のことであるとすぐにわからない。


 あごひげをたっぷり蓄えた目の鋭い御仁は、たしか見覚えがある。披露宴で挨拶をしていた、嵯峨野家旧臣である宮内大臣だった。


「斎藤さま、ご機嫌よう」


 宙子は大臣の名前を憶えていて、頭をさげた。


「奥方は何ばお作りになったとか?」


「こちらのクッキーを作りました」


 宙子が用意したクッキーは、半分に減っていた。


「ほう、こりゃあ珍しか西洋ん菓子やなあ」


 宙子は思わず作り方を忠臣に教えてもらったと言いそうになり、口を慌ててつぐむ。かつての主家の当主が菓子をつくるとわかっては、面目が保たれないだろう。


「ジンジャークッキーです。よろしかったらおひとつどうですか?」


 宙子のすすめに、斎藤はあごひげを揺らす。


「そがん、かつてん主家ん奥方さまからひとつだけなんて買えるわけがなか。残っとーもん全部、もらおう」


「まあ、ありがとう存じます」


 斎藤は、気前よく買い上げてくれた。


「あれ? 斎藤さまじゃないですか」


 宙子がクッキーを袋に詰めていると、古賀の声がする。


「こりゃ、古賀さまんとこの三男坊。奇遇じゃな」


 古賀は普段絣の着物に袴姿だが、今日は珍しく洋装を着ていた。ふたりは親し気に言葉を交わしている。斎藤から『古賀さま』と言われるくらいなのだから、古賀の家は鷹籐藩の重臣の家系だったのだろう。


「宙子さまのクッキーが残ってたら買ってくるようにと、忠臣さまに言われまして」


「ハハハッ! 若殿さまは奥方さまに甘い、甘い。新婚さんじゃからな」


 豪快に笑い飛ばす斎藤に、宙子は赤面するしかない。


「でも、どうも売り切れたみたいですね」


「そうや、今わしが全部買い占めたところよ」


「はい、誠にありがとう存じます」


 宙子はぼそぼそと、礼を述べた。


「困ったな。どうしようせっかくお金まで預かってきたのに」


 宙子は、二階の様子が気になっていたので、それとなく古賀を誘導してみる。


「あの、二階にもたくさん品物がありますから、どうぞご覧になってください」


「あっ、そうですね。せっかくなので、何か買って寄付してきます。預かったお金をそのまま忠臣さまに返すなんてことできませんからね」


 そういうと古賀は折り階段の方向へ歩を進めたかと思うと、すぐに振り返った。


「そうだ、京助くんは来ましたか? 今日のバザーの日にちを聞かれたので、来るのかと思って」


「いえ、来ていませんけれど」


 京助が日にちを聞いたなんて、洋館で会った時はバザーに特別興味を惹かれた感じでもなかったのに。古賀は、「そうですか」とそれ以上訊かずに二階へ向かった。


 宙子は止まっていた手を動かし、クッキーを袋につめる。それを斎藤に渡し代金を受け取ると、あきらかに宙子が言った金額よりも多かったが、黙ってありがたく頂戴した。


 クッキーが売れてしまうとすることがなく、二階を手伝おうかと売り場の責任者を目で探す。すると、まばらな客の中に意外な人物を見つけた。


「お母さま、いらっしゃったのですか」


 先日と同じこげ茶色の着物を着た母が、鹿鳴館の食品売り場が並ぶホールに茫然と立ち尽くしていた。バザーに買い物に来たという雰囲気ではない。


 宙子はすばやく責任者に持ち場を離れることを告げ、母の元へ駆け寄った。母の顔色は悪く幽鬼のように目線が定まっていない。


「どうされました。人込みに酔いましたのね」


 宙子の差し出した手は、ぱしんと乾いた音たて振り払われた。


「あなた、こんなところで何をしているの。ものを売りつけ金子きんすをもらうなんて。そんな卑しい仕事を」


 早紀子の親が反対したように、母も娘が商売人の真似事をすることを恥ずかしいと感じたようだ。


「これは、慈善のためなのよ。けっして商売のためではなくて、寄付をつのるためで」


 宙子の言い訳に、母はますます気持ちをたかぶらせていく。


「華族の奥方がすることじゃない。やはり、夢に見たことは本当だったのね」


 母は焦点の合わぬ目で、ぼそぼそと意味の分からぬことをつぶやく。


「娘に恥をかかせるような家にはおいておけません。さっ、家に帰りますよ」


「家って、嵯峨野家からは迎えの馬車がくるから」


 宙子の手を引き、強引に外へ連れ出そうとする母に食い下がる。


「何を言っているのです。嵯峨野ではなく、青山の家に帰るのですよ」


 言い合う母子の様子が尋常ではなく、周りの人々はふたりを遠巻きに見ている。


「待って、そんな急には帰れないわ」


 宙子の声も段々と大きくなっていく。


「宙子さま! どうされました。お母さまもごいっしょで」


 宙子の名前が呼ばれ振り向くと、古賀が階段を勢いよく駆け下りてくる。


「宙子? あなた、宙子なんて呼ばれているの。どういうことなのいったい!」


 古賀の発した名前が、母の顔色を赤黒く変色させた。これは錯乱を起こしかけている。もう誰の言うことも耳に入らない。これ以上興奮すると倒れることになるだろう。


 ここはいったん青山の家に帰るしかないと決断し、息を切らして駆けつけた古賀に、宙子はにこりと微笑んだ。


「親戚に不幸がございまして、母が迎えに参りましたの。今日は青山の家に向かいますので、若殿さまにはそのように申し上げてください。けして心配されませんように」


 宙子は騒がしく落ち着かない心の臓をなんとか押さえつけて、平静を装う。古賀がこれ以上騒がないことを祈った。


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