第六話 バザー当日
バザーの前日、宙子は朝からジンジャークッキ―を小梅に手伝ってもらいたくさん焼いた。郁子に訊くと、食べ物は売れるから作れるだけ作ってほしいと言われたのだ。たくさん仕入れた材料がなくなるまで焼くと、髪に砂糖と生姜の匂いが染みつくほどだった。
その夜、忠臣と砂糖と生姜の匂いに包まれ睦み合う。セントラルヒーティングのおかげで、火鉢よりも室内は暖かいが、それでも人肌が恋しい。今日はよそうかと、忠臣に言われたが、宙子からお願いをした。
ふたりから発される切ない吐息が、冬のキリリと冷たい空気を切り裂き上っていく。
宙子がここに来て四度目の満月の光が、高い天井を青白く輝やかせていた。忠臣の揺れる前髪の隙間から除く、澄んだ瞳には宙子の姿が写っている。そこに写る女は至極幸福そうだ。
人はどうして抱き合うのだろう。自分の中の足りないものを、埋めるためなのか。愛ゆえに取り込んだものは、身の内で日々大きくなっていく。
ふと小黒がもらした『愛と執着』という言葉がよみがえる。自分の中に入ったものが、愛に変わるか執着に変わるか、それをわけるものはなんだろう。
宙子はことが終わると、今忠臣から取り込んだものが執着ではなく愛に育つよう願いながら眠りについた。
忠臣は、床に落ちた寝間着を拾い素肌に着込む。寝台に腰をおろし、眠る宙子の頬に張り付いた髪を指で払ってやった。
危うく自分から手放しかけたこの幸せを、失いたくない。宙子の身を二度と、危険な目に合わせるわけにはいかなかった。
――小黒、起きているか?
――あ? 終わったか。まあしかし、仲がよろしいことで。
――明日の鹿鳴館のバザーには、おまえはついて行くことはできないのか?
――あー、人込みは無理だって。本体の猫が不安定になるからな。俺が入り込めなくなる。心配なのか。
――玄生がどこで襲ってくるとも限らない。
――まあ、魔が徘徊するのは夜だ。そう心配すんなよ。それに、あいつが潜んでるのはこの屋敷の奥だろ。
風呂場で宙子が襲われた状況から、忠臣はひとつの答えを導き出していた。
あの時、九時前には風呂場の外に婆以外の人影はなかった。風呂の湯を熱湯にするにはまだ時間をかけないといけないのに、その場をはなれた。
それは、奥の杉の板戸が九時に閉まるからではないかと考えたのだ。奥の女中の中に玄生、もしくは玄生の操る人間が紛れ込んでいるのではないか。
その答えが正解かどうか確かめるため、二回目に宙子が襲われた時、田辺に頼んで奥の女中にだけ忠臣の外泊をそれとなく漏らしてもらった。
田辺が宙子に言った、外務省の小間使いが告げに来たと言うのは嘘だった。
案の定、偽の情報を真に受け宙子を襲いにきた。いや襲ったのは生霊だから、正確には操ったのだ。
小黒の結界は、この屋敷全体を覆うほどの力はまだない。母屋にいる祖父や義母、弟に叔母の身は心配だが、奴が妹と姉の次に襲ったのは宙子だ。
小黒の力が復活するのを恐れているのだろう。
「何事もなければいいのだが……」
忠臣のこぼした憂いは、先ほどの熱気が冷めた夜の底に重く沈んでいった。
冬晴れのバザー当日、鹿鳴館は日の丸や垂れ幕、花で飾り立てられていた。
一階には、茶やコーヒーにラムネ、それに菓子などの飲食。二階では売り場を一番から十三番まで設け、それぞれの責任者と令嬢が五、六人売り子を務めた。
品物は、手袋に涎掛け、刺繍した半襟にハンカチ、巾着や丸紐など多岐にわたる品物が用意され、年末の忙しい時期だというのに、朝の開場からひっきりなしに客が訪れ大盛況だった。
売り子の令嬢たちは華やかな色とりどりの着物をまとっている。宙子も今日は鮮やかな青である新橋色の友禅に、七宝模様の帯を結んでいた。
物おじしない令嬢たちの、かしましい売り込みの声。そこここで交わされる挨拶。鹿鳴館は、普段の優雅な喧騒とはまた違うにぎやかさだった。
宙子は一階の飲食の売り場に立ち、クッキーを売っていた。品物の値段は寄付の値段込みで高く設定されていて、おまけに釣銭を出さない決まりになっている。
それでも品物は飛ぶように売れていき、実業家や政府の高官たちが大金を気前よく払っていく。
宙子はものを売ってお金をもらうという行為は初めてで、最初声をかけるのもおっかなびっくりの状態だった。しかし、売り場の責任者のご夫人はバザーになれた方で、ご友人やかつての家臣を見つけてはどんどん商品を売り込んでいた。
宙子も何事もチャレンジだと積極的に声を上げ、ジンジャークッキーの美味しさを宣伝したのだった。
郁子は二階の巾着売り場に立っており、早紀子の刺しゅう入りハンカチも並べられていた。宙子はお互いの用意した品物が売り切れるようにと、激励の言葉を郁子と交わしていた。
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