第五話 母をもてなす
一時間以上経過して、二人はようやくクッキー作りを再開した。薄く伸ばした生地を丸い型でぬき、西洋ではオーブンという竈で焼くそうだ。しかしオーブンはないので、フライパンで代用した。
焼き上がると、生姜と砂糖のまじりあった甘い匂いが台所中に漂い、宙子の口の中に自然と唾がたまった。
その頃には小梅もマキも洋館に戻り、忠臣は台所から追い出された。宙子は冷めたジンジャークッキーと紅茶を入れて、居間にいる忠臣に試食してもらう。
「うん、美味しい。生姜がぴりっとしていて、いいスパイスになっています。シナモンの香りもいい」
宙子も、クッキーを口にする。甘いけれど生姜の風味もあり、とても美味しい。生姜湯に、似た味わいなので西洋のお菓子に慣れていない人でも食べられそうだと宙子は思った。
「ありがとうございます。よかった。これでバザーに参加できます。そうだ、正臣さんにもクッキーをお届けします。きっと喜ばれるわ」
宙子は奥で一人暮らす正臣を案じていた。
「ああ、そうしてください。正臣も甘いものが好きだから」
由良が大磯の別荘に行っていることは、忠臣には内緒だった。
「昨日、学校の帰りにこちらに来られたのですよ。小黒と遊ぶために」
宙子がふふっと笑いを漏らしたので、忠臣はその笑いの意味を聞いた。
「小黒ったら、逃げてばっかりで。こっそり撫でさせてあげてってお願いしたら、渋々大人しくなったのです。その後、口をなめられましたけど」
その小黒は甘い匂いが苦手のようで、庭を散歩中だった。
「まあそういう事情なら、怒れませんね」
渋い顔をした夫に宙子が笑いをもらすと、忠臣はふと思いついたことを口にした。
「せっかく上手に作れるようになったのですから、今度お母上をこの洋館に招待して、クッキーとお茶を振舞ってはどうですか?」
宙子が言ったわけではないけれど、忠臣は母とのいびつな関係を理解している。それでも宙子が嫁いでから一度も実家に帰っていないことを、忠臣は気にかけていたのだろう。
母の傍にいれば息苦しさに窒息しそうだった宙子だが、いずれ子を産めば、母の心境がすこしは理解できるようになるのかもしれない。
「お母上と二人きりになるのが不安ならば、弟の京助くんも誘ったらどうですか。古賀に伝言も頼めますし」
宙子も母のことは気にならないといえば、嘘になる。
「お気遣いありがとうございます。そうですね、弟がいれば、すこしは場がなごむかもしれません」
わたしは母から逃げてここへやって来たけれど、もうあの時の宙子ではない。ありのままの宙子として、母と向き合う力をここでつけられたと思う。
口に含んだジンジャークッキーは甘いけれども、少しの辛みが宙子の舌を刺激したのだった。
来週に慈善バザーが迫っている。冬にしては暖かな日和に、母と弟は洋館を訪れた。忠臣は仕事で留守にしているが、その方が母も弟も気兼ねせずにすむだろう。
母はこげ茶色に流水と草木が友禅で描かれた小袖姿で、やってきた。母の晴れ着の中でも一番気にいっていたものだ。横にいる京助は相変わらず似合わない、書生羽織を着ていた。
「ようこそ、おいでくださいました」
宙子に中へ案内され、母は洋館が珍しいのかきょろきょろと室内を見回していた。
「このような、洋館に入るのは初めてですよ」
母がそう漏らしたので、ここは忠臣のこだわりの家なのだと宙子は説明する。宙子の後ろから小黒がついてきて、会話に聞き耳を立てているようだ。
「あなた、ちっとも藪入りをしないから、さみしかったわ」
藪入りとは商家の奉公人の休日のことを言うが、嫁入りした娘が実家に帰ることも言う。
「ごめんなさい。ここの生活に慣れるので精一杯で。ようやく落ち着いたところなのよ」
「まあいいじゃない。姉さまが元気でやってるんだから」
京助が助け舟を出してくれた。やはり、母は宙子が実家に帰らないことを不満に思っていたのだ。数か月ぶりに会う母は、少し痩せたようだった。
「お母さま、今日は珍しいものを食べていただきますよ。全部わたしがつくりました」
居間にふたりを通し、洋卓の上に用意した軽食とお菓子を振舞う。
サンドイッチにジンジャークッキー。季節の果物を盛り合わせ、薫り高いダージリン産の紅茶を入れる。
親子水入らずの時間を持てるように、マキは居間ではなく台所で控えていた。
「これを、あなたが? 女中が作ったのではないのね」
「わたし、お菓子以外にも西洋料理を少しだけですけど作れるようになったのよ」
「そう、なの……」
母は信じられないという顔をして、見慣れぬ洋卓の上にならぶ色とりどりの食べ物を見ていた。
「西洋の食べ物ですから、お口に合うかわかりませんけれど。こちらのお菓子は今度、鹿鳴館で行われるバザーに出すのです」
宙子はジンジャークッキ―を母に差し出しながら、バザーの説明もする。
「鹿鳴館に出入りしているのね。夜会は華やかな催しなのでしょうねえ」
母は、バザーよりも夜会に興味があるようだ。
「夜会はまだ行ったことはなくて」
宙子がそう返答すると、母は明らかに残念そうに眉をさげた。
「まあいいじゃない。姉さまもそのうち行くよ。とにかく食べようよ。美味しいものを目の前にしてお預けをくらうなんて、たまらない」
京助はさっそく、クッキーに手を伸ばした。満面の笑みで美味しいと言ったので、つられて母もクッキーを一口かじる。
「あらっ、生姜の味がするわ。西洋にも生姜があるのですね」
やっと母の笑顔が見られて、宙子は胸をなでおろす。
「生姜をたっぷり入れたので、体が温まります」
それから他愛ない話をして、午後のゆったりとした時間が流れていった。
母も弟も宙子のもてなしに満足しているようだ。母に華族の奥方として、つつがなく暮らしている様子を見せられた。
不安だった母との再会だが、忠臣の助言に従ってよかったと宙子は心底思ったのだった。
別れ際玄関で、母は名残惜しそうに宙子の手を握った。
「鏡子、何かあったらいつでも帰ってきていいのですからね」
鏡子と久しぶりに呼ばれ頭の芯が一瞬冷えたが、それよりも優しさが身に沁み母の炊事でかさついた手を握り返した。
「大丈夫、わたし大事にしてもらっていますから。心配しないで」
宙子がそう言っても、母はまだ心配そうな顔をしている。
「何をそんなに心配してるのさ。いい加減、子離れしないとダメだよ」
京助の背伸びした発言に、母と宙子はそろって笑い声をもらす。京助のおかげで笑って別れを言えた。宙子は、今度は実家に帰ろうと心に決める。
母は数か月前より、すこし老け込み痩せていた。何か美味しいものでもつくって、持って行こう。バザーが終われば、時間が取れる。
忠臣に相談しようと、宙子は考えを巡らせていると足元の小黒が話しかけてきた。
「おまえ、鏡子って呼ばれてるのか?」
台所にいるマキと小梅に聞こえないように、宙子は声を落とす。
「死んだ姉の名前なの。母はわたしを姉だと思っているのよ」
「なるほど……。愛と執着は紙一重だな」
いつも粗野でふざけたことばかり言う小黒が、妙に人間臭いことをこぼした。何百年と依代に憑いて現世を見続けてきた猫だから、人間のような思考を手に入れたのだろうか。
そうであるなら、飼い主のために嵯峨野家を守っている感情は、猫の道理ではなくもはや人間の道理に近いのかもしれない。
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