わたしの幸せな妊娠生活? ②

 洋館の居間に、冬の柔らかな日差しが差し込んでいた。その温かい光を受け、煉瓦色の被布を着た宙子は長椅子に腰かけ一心不乱に手を動かしている。


 今日は忠臣の休みの日。休日の午後は、できるだけ二人だけになりたいと忠臣が言うので、マキや小梅は母屋に行っていた。


 本来なら忠臣と宙子は二人の時間を満喫し、おしゃべりを楽しむのだが、室内にはかさこそと宙子が立てる毛糸を編む微かな物音しかしない。


 先日、家庭教師のアリスから毛糸とかぎ針をプレゼントされたのだ。生まれてくる子供のおくるみを編んではどうかと言われたのだ。


 編み物などしたことがなかった宙子だったが、アリスに教えてもらうとたちまち夢中になった。


 編み方さえ覚えれば単調な繰り返しであるが、子供の誕生を寿ぐ儀式のようだと宙子には思えた。


 つわりがひどくあまり食べられなかった自分を不甲斐なく思っていたから、子供のために何かできるのがうれしいのだ。


 編み物を覚えてからは、忠臣には先に寝てもらいついつい夜更かしをしている。早く寝るように促されても、切のいいところまでと編んでしまうのだ。


 そういえば編み物に夢中なってから、忠臣と碌な会話をしていないような気がしてきた。


 頭によぎった懸念に、根をつめて編んでいた手がピタリととまる。ふと心配になり、隣へ視線を向けた。


 そこで本を読んでいた忠臣の姿が、いつの間にか消えていた。


 居間を見まわしても、忠臣の姿はどこにもない。


 ――どうしよう。忠臣さんに呆れられたかも。そういえば、さっき話しかけられて生返事を返したような気がするわ。


 忠臣が怒って、居間を出て行ったのだ。宙子はそう思い込み編み物を横におき、焦って立ち上がった。すると、マキと小梅はいないはずの台所から物音がする。


 宙子は台所へ向かって駆けだした。子を授かってから、走ったのは初めてだった。


 恐々台所を覗くと、羽織を羽織ったの忠臣の背中が見えた。その後ろ姿に声をかける。


「あの、何をなさっているのですか?」


 遠慮がちな声に反応し、振り返った忠臣の顔は柔和にほほ笑んでいる。


「宙子さんのつわりも収まってきたようですから、スープをつくっているのです」


 宙子は、ホッと胸に手を当て息をはいた。


 忠臣は怒っていなかった。それどころか、宙子を気遣って料理までしてくれている。宙子の胸の内は子供のためとはいえ、忠臣を邪険にあつかった罪悪感にきしきしと軋む。


「ごめんなさい。わたし、編み物に夢中になってしまって」


 宙子の言い訳を聞き、忠臣は無言でまた背中を向けた。


「いいのですよ。子供の誕生が待ち遠しくてのことなのは、わかっています。けして、さみしいなどと思いませんから」


 ……さみしい?


 思わぬ感情の言葉が出てきて、宙子は面食らう。忠臣は否定したが、さみしいと感じているのだろうか。そのような感情を抱かせてしまい、すまないと宙子は反省する。


「何か、お手伝いします。器を出しますね」


 いそいそと宙子が水屋に近づくと、忠臣が即座に止める。


「大丈夫です。もうすぐできるので、宙子さんは座っていてください」


 そう言われては、従うしかない。宙子は大人しく居間に引き返したが、おくるみの続きを編む気にならない。


 手持無沙汰に生成り色の毛糸をじっとながめていると、いい匂いが漂ってきた。忠臣が盆にのせた器を運んできて、宙子の隣に座る。


「すごく美味しそうな匂いです。これも、イギリスで覚えてこられたのですか?」


 忠臣は留学先のイギリスでは一般家庭に下宿し、そこで料理もしていたそうだ。


「はい、材料はそのままというわけにはいきませんから、台所にある野菜でつくってみました。さあ、温かいうちにどうぞ」


 そう言うと、忠臣は匙を手に取り器からスープをすくい、宙子の口元に運ぶ。


「えっ? あの、ひとりで食べられますよ」


 つわりがつらくて、食べさせてくれようとしているのだろうか。その気遣いはうれしいが、忠臣に食べさせてもらうなんてものすごく恥ずかしい。


「はい、口を開けてください。この間、正臣にみかんを食べさせてもらったのでしょう?」


 忠臣は満面の笑みをはりつけたまま、頑なに匙をひっこめない。その姿を見て、宙子は忠臣の子供っぽい対抗心を理解した。


 普段、年齢よりも落ち着きと威厳に満ちている忠臣だが、宙子の前ではたまにこのように意固地になる。惚れた弱みというか、けして嫌ではない宙子だった。


 しかし、もうすぐ人の親になるのだ。子供っぽくじゃれ合うのはいかがなものか。


「あの、正臣さんはお子さまなので背伸びがしたくて、わたしのお世話してくださっただけですから」


 その宙子の台詞を聞き、忠臣ははたと目を見開き匙をひっこめた。


 ――よかった。わかってくださった。


 納得したはずの忠臣の整った顔が、妖艶な笑みを浮かべる。薄い唇が片方だけ、つり上がったのだ。


「そうだ。子供の正臣と同じことをするなんて、どうかしてました。大人には大人のやり方があるじゃないですか」


 忠臣はそう言うが早いか、匙からすくったスープを自分の口に含んだ。そしてすばやく宙子が逃げないように抱きよせると、スープに少し濡れた唇をあっけにとられ半開きとなった唇に押し当てる。


 宙子の唇の隙間から、生暖かい液体が流れ込んできた。美味しいというよりも、違う意味の愛情に宙子は喉をならす。


 忠臣に流し込まれたものをすべて受け止めきれず、口の端からひとすじこぼれ落ちた。唇を離した忠臣の顔には、意地悪な笑みが広がる。


「こぼすなんて、お行儀が悪いですね。ちゃんと、全部飲んでください」


 そう言うと、長い人差し指で宙子の頬にこぼれたスープをぬぐい、ぺろりと赤い舌でなめとった。


 宙子は目の前で行われる痴態は自分への仕返しだと思うと、反抗心がむくむくと湧き起こる。


「もう、そんなことされては、味なんてわかりません」


「おやっ、たりませんでしたか。じゃあもう一回」


 先ほどより多く匙でスープをすくう忠臣の姿を見て、宙子はあきれつつも観念して瞳を閉じる。


 そんな甘い空気が満ちたふたりだけの室内へ、一匹の黒猫が『あほか』とでも言いたそうな顔をしてのそりと侵入してきた。


 夢中で唇を合わせているふたりは、その存在に気づきもしないのだった。



      おわり




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旦那さまは憑かれています~侯爵嵯峨野家の退魔帖 澄田こころ(伊勢村朱音) @tyumei

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