番外編

わたしの幸せな妊娠生活? ①

 寒さ厳しい如月の頃。忠臣は仕事が終わった夕刻、一刻も早く宙子の待つ家に帰りたいというのに、祖父の住む御殿の廊下を足早に歩いていた。


 足裏から冷たさが這い上り、急く心を一層かきたてる。


「忠臣でございます」


 祖父の居間の前でそう告げると、すっと障子が開け放たれた。忠臣が下げていた頭を上げると、祖父は火鉢で手をあぶり背中を丸めていた。


 忠臣は急な呼び出しに具合でも悪くなったかと心配していたが、ぬくぬくとしたその姿にホッとするやら、イラっとするやら。


 しかし老体に愚痴を述べるのは、大人げない。忠臣はぐっとこらえ、呼び出しの要件を聞いた。


「おじじさま、何用でございましょう?」


 祖父は忠臣の問いに答える代わりに、しかめっ面を返した。


「近こうよれ。そこが開いていたは寒くてかなわん」


 ケンカ腰なのは相変わらず、元気な証拠。忠臣はそう思うことにして、抵抗もせず膝を進め祖父の傍による。


「宙子の加減はいかがか?」


 宙子は今妊娠中でつわりがひどく、食事がなかなか喉を通らない状態だった。


「はあ、まだまだつわりがひどいようです。何もせずに、寝ていて欲しいのですが動いている方が気がまぎれると、じっとしていません」


「そうか、まあ宙子らしいといえば、宙子らしいな」


 祖父はふっと苦笑いを浮かべ、横においていた塗りの衣装盆に手をかける。それをすっと忠臣の前に差し出した。


「とにかく妊婦は体を冷やしてはならん。暖かくせねば。これを宙子に」


 衣装盆の中を見ると、こっくりと落ち着いた色合いの赤銅色の被布ひふだった。


「綿が入っているので、暖かいぞ。人というものはとかく、寒くて腹がすいていては気から弱っていくもの。食べられないのなら、せめて暖かくせよと申しておけ」


 言い方はぞんざいであるが、忠臣は祖父の気遣いを素直にうれしく思う。


「お心遣い、痛み入ります」


 忠臣が深々と頭をさげると、その頭上から「こほん」とひとつ咳払いがおとされた。


「ときに忠臣、そなた夜の方はどうしておる?」


 まわりくどい祖父の言葉に、忠臣は首を傾げながら問い直す。


「夜とは、何のことですか?」


 忠臣を見ていた祖父の顔が、ふいっと横を向く。


「夜と言えば、床のことであろう」


「はあ? 床というか、ベッドに寝ていますが」


 まだ何のことかわからない忠臣に、祖父はしびれをきらし膝をポンとひとつ叩いた。


「ええい、鈍いの! 床と言えば夫婦の営みのことであろう」


 夫婦の夜の生活について祖父が質問してきた。外務省の上司であれば、下世話な話題もそつなく受け流せる忠臣だが、相手が祖父となると勝手が違う。すぐさま、眉間にしわがよる。


「そのような夫婦のプライベートに、いちいち口出ししないでいただけますか」


「ぷ、ぷら?」


 イギリス仕込みの発音で、私的な語彙を言われても、祖父には理解できない。少々馬鹿にされたように感じたのか、月代を剃って大時代的な髷を結った頭がうっすら赤くなっていく。


「正室が身ごもっておる時は、昔ならば側室が夜の相手を務めておったのだ。しかし、そなたは宙子ひとり。宙子がつわりで苦しんでおるのだから、男の欲は我慢いたせと言いたいのが、わからんのか!」


 一気にまくし立て、祖父は肩で息をしている。その必死の形相に心打たれるどころか、忠臣は開いた口が塞がらない。


「はあ……そのようなこと、当たり前でしょう」


「まあ、わかっておるならよい。さっ、その被布を宙子に届けてやれ。くれぐれも、冷やすでないと申し付けよ」


 祖父は忠臣に向かって、猫でも追い払うように手をひらひらとふる。しかし、ふとその手がとまった。


「初めての子ゆえわかっておらんようだが、忠臣。女は子を持つと変わるのだぞ。男はその変わり身に驚くやら、さみしく感じるものぞ。まあ、そなたもそのうちわかる」


 妙にしんみりと言われては、忠臣は邪険にもできず。一応しおらしく、「わかりましたと」頭を下げて退室した。


 わかりましたと、答えたものの、忠臣は祖父の言葉を理解していなかった。

 変わるとはどういうことだ。おまけに、さみしくなるとは……。


「さっぱりわからん」


 忠臣が冷たい廊下にそうこぼすと、奥からとたとたと軽い足音が聞こえてきた。姿を現したのは年の離れた弟、正臣だった。


「兄上、ごきげんよう」


 忠臣にそう挨拶をした正臣の頬は赤く高揚していた。


「さきほど、お姉さまに蜜柑をお届けしたのです」


 蜜柑は、先日国元から届けられたと忠臣は知っていた。


「そうか。それはありがとう」


 礼を言う忠臣に、正臣はさらに興奮した様子で話しかける。


「お姉さまは美味しい美味しいと言って、みっつも召し上がったのですよ」


 忠臣は弟の頭にゆっくりと手をのせた。


「それはよかった。宙子さんは最近食欲がなかったから」


「つわり、と言うのでしょう。赤さんができるって大変なんですね。だから僕、蜜柑の皮をむいて、白い筋もきれいに取ってあげたんです。そして、こう――」


 そこまで言うと、正臣は蜜柑をつまむ真似をして忠臣の口元に指を動かし、自分の口を大きくあけた。


「あーんって、してあげたんです。お姉さまは最初恥ずかしそうにしてらしたけど、最後はパクパクお食べになりました。僕が食べさせたから、つわりもなおったそうです」


 得意そうに話す正臣の顔を忠臣は、まじまじと見返す。


「そ、そうか。正臣は優しいな」


 無邪気な弟のかわいらしいしぐさに、和む忠臣であったが、若干もやるものもある。宙子に手づから食べさせることを、忠臣はしたことがなかったのだ。


 ――落ち着け。他愛ない子供のじゃれつきではないか……。


 忠臣は自分をごまかしているが、ようは正臣に嫉妬を覚えたのだった。おまけに、『嫉妬かよ。肝の小せえ奴だな』と小黒の小言が脳内で響く。


 もう、小黒は忠臣の内にいないというのに。


   つづく




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