第十六話 アリス先生
忠臣に家庭教師を頼んで十日ほどたち、ひとりのイギリス人女性が嵯峨野家の洋館を訪れた。忠臣が外務省の伝手を頼りに探したアリス・レーンという女性は、流ちょうな日本語で挨拶をした。
「ミセス宙子。今日から、わたしがあなたの先生です。よろしくね」
亜麻色の髪に青い目をしたアリスは、居間のソファに座りゆったりとした笑顔を宙子へ向けた。
外国人に接するのは宙子にとって初めてのことだった。西洋人の年齢はわかりにくいが、アリスは若くはないようだ。本来なら緊張するところだが、アリスのくだけた物言いと朗らかな雰囲気に宙子は引き込まれた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。何分右も左もわかりませんので、先生にご迷惑をおかけいたしますこと、お許しください」
宙子のへりくだった挨拶にアリスは、きょとんとしている。
「初めて習うのですから、わからないのはあたりまえでしょ。回りくどい難しい日本語はやめてください。わたしはそこまで、日本語は上手じゃない」
はっきりものを言うアリスに面食らったが、これくらいでくじけていられない。
「申し訳ありません。以後気を付けます」
「では、今日はレッスンに入る前に、あなたとおしゃべりしにきました」
「あの、レッスンとは?」
宙子は遠慮せず、わからないことはどんどん聞いていこうと決心する。
「わからないことは、その時に訊く。いいですね。レッスンは稽古のことです」
宙子は『レッスンは稽古』と頭の中で何度も復唱する。
「宙子は、まず何が習いたいですか?」
「西洋料理の食べ方を知らないので、まずそこから始めたいです」
「OKではテーブルマナーから」
ここで、また宙子はアリスの言葉の意味を訊ねた。いちいち質問する宙子を嫌がりもせず、アリスは答えてくれる。その態度がますます宙子のやる気を助長させるのだった。
「あとは? ミスターサガノから、英語を習いたいと聞きました」
「はい、英語もですが、鹿鳴館に出入りできるようなマナーを身に着けたいのです」
「おー、鹿鳴館。それはいいゴールです。わたしも鹿鳴館に行ったことがありますが、あなたも行くだけならすぐ行けますよ」
「えっ、そうなのですか?」
雑誌に紹介されていた淑女は、ドレスを颯爽と着こなし英語を操りダンスも踊ると書いてあった。
「鹿鳴館には夫婦で出かけるのがルールですから、夫に連れられ嫌々という人も。そういう人は、ダンスも踊らず立っているだけ。妻にNoと言われた夫は、芸者を連れて行く人もいますね」
雑誌には絶対書かれないことを、アリスは宙子に教えた。宙子のやる気がどこまであるか、試しているのだろうと思う。
「あの、夫は長年イギリスに留学していました。お国のためにと一生懸命勉強したことだと思います。その夫に恥をかかせない妻でいたいと思います」
アリスは宙子の意気込みに、高い鼻から息をもらし拍手をおくった。
「エクセレント! わかりました。では、わたしもがんばりますね」
「はい、よろしくお願いいたします」
レッスンは週二日の約束だった。次のレッスンの日付を決め、この洋館で昼食を食べながらテーブルマナーの実践をしようということになった。
「ダンスはわたしも教えます。ここにはピアノもありますしね」
アリスは居間におかれた、なんの用途に使うかわからなかった木の箱を見た。
「ピアノ? この大きな木の箱がピアノというものですか?」
「そうですよ」アリスは立ち上がり、ピアノの傍により横長の木の箱の部分に手をかけた。そこは蓋になっていて、中には白と黒の細い木の板が隙間なく並んでいた。
「これは、ピアノという西洋の楽器です」
アリスの細長い指が白い木の板を押す。ピアノから、宙子が聞いたこともない美しい音が聞こえてきて、部屋の隅々まで響いていく。
「なんて、きれいな音。お琴の音色とは全然違う」
「あら、宙子は琴を弾かれるのね。ピアノは洋琴とも言われていて音が出る仕組みは琴と似ていますよ」
「では、糸がこの音を出しているのですか?」
宙子の好奇心に、アリスはクスリと笑う。
「詳しいことは、ミスターサガノに聞きなさい。彼はピアノを弾くと聞きました」
忠臣は西洋の楽器もたしなんでいるのかと、宙子は目をむく。
忠臣さんは、慣れない外国でいろんなものを学んでこられたのね。これは、わたしも負けていられない。
「そうそう、鹿鳴館で舞踏練習会をしていますよ。そちらも、おすすめですね。社交界の方々と仲良くなれるから」
いきなり練習会に出席するのは、抵抗を感じる。披露宴で口さがない悪口を言われていたのも、宙子の耳に入っていた。上流階級の人たちにとって、宙子は浮いている存在に違いない。
しかし、さっきした決意が宙子の背中を押した。
「練習会にも出たいです。ダンスに少し慣れたら出席します」
「何事も、チャレンジですね。それと、練習会に出るにはドレスがいります」
「ドレスは、披露宴で仕立てたものがあります」
母の気に入りの藤色のドレスを宙子は思い出した。
「それは、夜会服でしょ。レッスンにはデイドレスがいります」
ドレスに種類があること自体、宙子は知らなかった。しかしドレスを仕立てるのには費用がかかる。
「でも、またドレスを作っていただくのは……」
「何を気にしているのです。ミスターサガノなら、ドレスの一枚や二枚喜んでつくってくれます。妻が美しくなることを嫌がる夫などいません」
「そ、そういうものですか……」
まだ夫婦になって一か月もたっていない宙子にとって、わからない夫婦の機微というものだった。
「宙子、あなたのやる気はわかりましたが、一番大切なことは楽しむことです」
アリスの青い目がじっと宙子を見つめた。
「夫のため、お国のため。そういうのも大事。でもそれだけでは、嫌になってしまいます。わたしもあなたに教えるのを楽しみますから」
アリスの飾らない優しさに、宙子は気負いすぎていた体から力をぬく。
「ありがとうございます」
勢いよくお辞儀した宙子の胸は、忠臣の求婚を受け入れてから初めて、新しい世界への希望で膨らんでいた。
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