第十五話 決意

 忠臣を送り出した後は、昨日と同じように母屋に挨拶に行った。相変わらず大殿さまは、宙子の顔を見ようともしない。


 宙子はこれも嫁の務めだとわりきり、開かぬ障子の前で丁寧に挨拶をしたのだ。昼食後は居間の椅子に座って、さっそく忠臣が用意してくれた『女学雑誌』をめくった。


 記事の内容は流行の束髪の紹介や、鹿鳴館での夜会の様子が書かれていた。


 毎夜、舞踏会が開催され洋装に身を包んだ男女が、ワインを飲み外国人と談笑し、ダンスを踊る。文明開化の集大成のような場所であった。


 鹿鳴館の花である、華族令嬢や夫人も紹介されている。そういえば、宙子のドレスを誂えた白木屋の奉公人は、宙子もいずれ鹿鳴館に出入りするだろうと言っていた。


 その時の宙子は、早く終わってほしいとしか思っていなかったので、鹿鳴館と言われても右から左であった。


 このきらびやかな世界に、近い将来宙子は飛びこまなければならないのかもしれない。宙子は持っていた女学雑誌を、ぱたんと閉じた。


 かもしれない……ではなく、行かなければならないのだ。鹿鳴館は外務卿の肝いりで建設されたと、雑誌に書いてある。外務卿といえば、披露宴で挨拶を交わした黒々とした立派な髭を蓄えていた人物だ。


 忠臣の姉妹を食った野犬や小黒のことは気になるが、それよりもこちらの方をなんとかしないといけないのではないか。


 宙子はダンスどころか西洋料理の食べ方もわからない自分に、焦りを感じ始めた。このままでは、ダメだ。ダメだというより、うつむいてばかりいる自分が許せなかった。


 何か解決策はないかと、また雑誌をめくるとある広告に宙子の目は釘付けになる。


「これだわ。琴を習うより、今はこれよ」


 宙子はその広告を食い入るように読み始めたのだった。




 その日、忠臣は夕食前には帰宅した。マキによれば、そのような早い帰宅は珍しいそうだ。結婚前は、屋敷で夕食を食べたことがほとんどなかったほど忙しい忠臣だった。


 忠臣の計らいなのか、その日の夕食も和食だった。肉も出されたがしっかり火を通され、箸でも食べられるようにあらかじめ切られている。


 初めて食べる肉は弾力があり、噛めば噛むほどうまみがしみ出した。肉にかかっているタレも醤油が基本だが甘味や酸味も感じられ、西洋風に味付けられていた。


 まだ食べ慣れぬ肉だけれど、宙子は滋養になると言った忠臣の言葉を信じ付けられていた肉をすべて完食した。


 西洋では食事中におしゃべりをしてもいいようで、忠臣は箸を動かしながら宙子に困ったことはないかと訊いてきた。


 宙子は箸をおき、居住まいを正した。


「困ったことはないのですが、お願いがあります」


 かしこまった宙子の様子に、忠臣も箸をおいた。


「西洋の文化を教えてくださる、家庭教師の先生をお願いしたいのです」


 女学雑誌に、家庭教師の広告が載っていたのだ。良家の子女向けに西洋式のマナー教師と書いてあった。


 宙子の申し出がよっぽど意外だったのか、忠臣の琥珀色の瞳が大きく見開かれている。


「家庭教師を雇うのはやぶさかではないですが、もうちょっと落ち着いてからでもよろしいのでは」


「いえ、今すぐお願いします。あのわたし、物覚えが悪いので習得に時間がかかります。早く始めるにこしたことはないかと」


「無理はされていませんか? 私の立場上、鹿鳴館に出入りしなければならないと、誰かに言われたとか。ひょっとして、今日渡した雑誌に書いてありましたね」


 忠臣は、「しまったな。中身まで確認していなかった」と独り言を言う。


 宙子を気遣う忠臣の気持ちが痛いほど伝わってくる。それでも、その気持ちに甘えてばかりいたらダメなのだ。


「無理というか、自分がふがいないのです。わたしは何も知らない。あなたと結婚したということは、華族になるということ。その覚悟があやふやだった自分が腹立たしいのです」


 この結婚には宙子の知らない忠臣の事情が絡んでいるのは、間違いない。忠臣が言った宙子が必要なわけも、まだわからない。


 それでも、忠臣の手を取ったのは宙子自身だ。忠臣に流されたからと、妻の義務を放棄する理由にはならない。


 宙子はこの結婚の中から自分がしたいと思うものを探し出した。それを探すことができたのは、勝気で好奇心旺盛な本来の宙子の姿を名前といっしょに取り戻したからに違いない。


「それに、西洋の新しいものに興味もあるのです。女学校でわたし、英語が得意だったのですよ。初歩しか学べませんでしたけど、お裁縫より成績がよかったくらい」


 忠臣は初めて宙子を見るような、新鮮な表情を浮かべていた。


「やはり、あなたはあの時の好奇心旺盛な宙子さんですね。新しいものにおびえるのではなく、知ろうとする」


 そうだ、忠臣の言うようにおびえていてはいけないのだ。忠臣は、母のように宙子の好奇心を押さえつけない。


「あのそれとお願いばかりですけど、西洋料理も小梅さんに教えてもらいたいです。あのおいしそうなオムレツを自分で作ってみたい」


「わかりました。マキいいですね」


 忠臣が部屋の隅で控えていたマキへ視線を向けると、「承りました」お辞儀をしてそれだけ言うと、また押し黙り部屋の装飾品に戻った。


「ありがとうございます。マキさん」


 宙子が弾んだ声で言うと、「お礼なら、若殿さまにおっしゃってください」マキの冷たい声が返ってきた。


 マキのいう通りだと宙子は改めて、忠臣に礼を言う。


「わたしのわがままを聞いてくださり、ありがとう存じます」


「大変でしょうけど、がんばってくださいね」


 忠臣に励まされ、自然と背筋が伸びる宙子だった。


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