第十七話 キス

 その夜、宙子は風呂上りに、髪を念入りに舶来のブラシでとかしていた。


 洗髪は日中のお天気のいい日に行って、たまに鶏卵を三つ四つかき混ぜて髪に塗ることもある。


 鶏卵は高価なので頻繁にはできないが、あきらかに髪に艶が出るのだ。結婚前は自分の髪が嫌いで手入れもせず、身なりに気を使わなかった。


 しかし結婚して、忠臣から毎朝綺麗や美しいと言われては、自分の身なりに意識が向かわざるをえない。


 せっかく綺麗だと言ってくださるのだから、本当に綺麗にならないと。


 宙子はせっせと美容に精を出し始めたのだった。マキも協力的で蒸した布を顔に当てると肌にいいとか、外国のクリームというものを手に入れてきたりした。


 おかげで今ではすっかり見た目だけは、華族の若奥さまと言われても恥ずかしくない姿になっていた。


 宙子は髪を三つ組みにして横に垂らすと、浴衣の上から羽織を羽織る。秋も深まり夜もずいぶん冷え込むようになってきたのだ。


 居間へ向かうと、朽葉色のお召しに羽織を羽織った忠臣が二人掛けの長椅子に座り分厚い洋書を読んでいた。


 今日も夕食には間に合わなかったが、就寝するまでのわずかな時間を居間で過ごすのが習いになっていた。マキは風呂の片付けが終わると、長屋へ帰る。この時間が夫婦二人きりの貴重な時間であった。


 忠臣は宙子の足音に気付き、洋書を閉じて顔を上げる。


「今日の先生との初顔合わせはどうでしたか?」


 宙子は忠臣の隣に腰をおろした。


「はい、とても日本語がお上手で、はきはきとものをおっしゃる親切な方でした」


「はは、それは頼もしいですね、アリス先生のご主人はお雇い外国人として、夫婦そろって十年前に日本に来られたのです」


「ご主人がいらっしゃるのですね。では、お仕事をされなくても」


 この時代、一定の階級の働く女性は夫を亡くしたか未婚の女性が多かった。


「お雇い外国人は、高給取りでしたからね。働く必要はないのですが、あの方はせっかく異国に来たのだからじっとしていられない。Adventureだとおっしゃっていたそうですよ」


「あ、あどべ?」


 宙子は首をかしげ、忠臣の言葉を繰り返そうと思ったが無理だった。


「Adventure冒険です。わくわくする体験という意味です」


「とても前向きで、すごいです。わたしも見習わないと」


 将来、宙子もアリスと同じように外国に行くかもしれないのだ。


「レッスンは来週からでしたね。何か入用なものは?」


 忠臣の台詞に、宙子はくっと口元に力を入れた。ドレスが入用なのだが、家庭教師のことといい宙子からお願いすることばかりなので気がひけた。


「あの、鹿鳴館であるダンスの練習会に出てはどうかと勧めていただき。それでデイドレスというものがあった方がいいとアリス先生に言われまして」


「わかりました。デイドレスですね。手配しておきましょう」


 忠臣はあっさり了承してくれた。


「わたしのお願いごとばかりで、ごめんなさい」


 本当はピアノのことも訊きたかったが、今日のお願いはドレスにしぼることにした。


「そんな、妻の装いを整えるのは夫の務めというか、喜びです」


 忠臣は、アリスが予想したとおりのことを言った。


「でもやっぱりわたしばかりお願いごともなんですから、忠臣さんも何かありませんか? わたしにできることは少ないですけれど、例えば食べたいものとか」


 宙子は、時間が許す限り台所に立つようになった。小梅からオムレツも習い何度か失敗したがようやく、きれいな小判型に焼けるようになってきたのだ。


「そうですね、ではキスをいただきましょうか」


 忠臣は、含みのある笑みを宙子に向けた。


「キス? キスゴですか。もう寒いからあるかしら。小梅さんに相談しないと。やはり天ぷらがよろしいですか?」


「違います」


 忠臣の右手が宙子の赤い髪をなで、耳から頬へさがってくる。ここ最近朝の挨拶が頬に唇が触れる行為から一歩進み、忠臣が宙子の体に触れることが多くなった。


 明るい朝の玄関で行われることが、ランプが灯る薄暗い夜に変わった途端に濃密な甘さをはらむ。


「煮つけ?」そうは言った宙子だが、忠臣の親指が宙子の唇に触れると、食べ物でないことを悟った。


「キスは、愛情表現です」


 宙子の煮つけは、無視された。


「そのキスは、どのようにしたらよろしいのですか? お手本を見せてください」


 宙子の言葉に、忠臣の薄い唇があきらかにいじわるそうににたりと笑む。


 今目の前の忠臣さんは、ひょっとして小黒? 目が金色じゃないけれど、あの時の色気のある小黒そっくりだわ。


 宙子はすました顔で琥珀色の瞳をじっとみつめる。瞳を揺らし動揺しているのを悟られては、なんだが負けるような気がした。


 頬に触れていた忠臣の手が宙子のうなじへ移動してゆく。忠臣の大きな手が宙子の薄い肌の上をすべっていく間、ぞくぞくと身をよじるような痺れが体の芯から噴き上げてきた。


 ゆっくり忠臣の顔が近づき、まぶたが閉じられた。宙子もつられて目を閉じると、唇に忠臣の熱を感じた。


 小黒にされた食べられそうな口づけではなく、じれったいほどに優しい口づけ。唇が離れる瞬間、下唇を食まれた。


 湯上りの温まっていた宙子の体から、身の内にたまった濃厚な芳香が立ちのぼる。目を開けると、その芳香に酔ったような忠臣の潤んだ視線と宙子の眼差しが絡み合う。


「さあ、宙子さんの番ですよ」


 ここで、『ごめんなさいできません』はとてもじゃないが言える雰囲気ではない。宙子は清水の舞台どころか、富士の頂から飛び降りる覚悟を持って忠臣の唇を求めた。


 唇を合わせると、下唇を食むかどうか数秒逡巡する。その寸暇を惜しむように忠臣のたくましい腕が、宙子を抱きすくめた。


 穏やかな忠臣に似合わぬ性急さに驚いていると耳元に、「よくできました」と甘いささやきが落とされた。


 ひょっとして、このままアレをする流れになるのではないだろうか。


 初夜で怖がっていた宙子だが、忠臣とアレをすることにもう恐れはない。それどころか、もっと忠臣の腕の中にいたいというはしたない願望が、じわじわと宙子の心を犯していく。


 たくましい腕の中の熱さに体が馴染んだと思っていたら、宙子は突然解放された。


「さっ、もう寝ましょうか」


 そうあっさり言い残すと、忠臣は宙子をおいて二階に上がってしまった。居間にひとりきりになった宙子は、魂が抜け出たように放心する。


「なんだったの……今のは」


 何を考えているかさっぱり読めない忠臣の行動に、宙子はだんだん腹が立ってきた。きっと、からかわれたのだ。


 そう結論づけると、足音もあらく階段をのぼり寝室の中へ入って行った。




 宙子が眠りについた夜半、寝室の扉が音もなく開いた。ゆらりと人影が中へ侵入してくる。忠臣の前髪は垂れさがり隙間からは金色の目が輝いていた。


「まったく、かわいい顔して寝てやがる。忠臣の奴、よく我慢できたな」


 小黒は宙子が眠る寝台に腰をおろし、鼻白む。


「ままごとみたいなことやってると、俺が先にやっちまうぞ」


 小黒は宙子の寝顔に見入ると、手をのばし頬に触れた。その手が首筋、浴衣の合わせ目へ蛇が這うようにおりていく。いよいよ宙子の柔肌を暴こうとした手が、ぴたりととまった。


「んん……。忠臣さん……」


 小黒のよこしまな思いを感じ取ったのか、宙子が寝言をもらした。


「悪かったな、忠臣じゃなくて」


 小黒の気がそがれ、ガラス窓にうつる自分の姿に目をとめた。表面がいびつに歪むガラスは、闇の中の忠臣を映している。


「おい、忠臣わかってんのか。このままだと宙子は死ぬかも知れないんだぞ」


 金の目でにらむ闇の中の忠臣は、何も返さない。


「愛の次は、罪悪感か……。ごちゃごちゃいらねえこと考えすぎなんだ。ほんとめんどくさい奴だな。抱かない理由を並べたって、宙子を妻にしたのはおまえだろ」


 小黒はガラスの中の忠臣を嘲笑して、吐き捨てた。


「たとえ俺に、そそのかされたとしてもな」

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