第六話 やきもち

 ダンスをしに意気込んで行った鹿鳴館だったが、なんとも気味の悪い終わり方であった。宙子は洋館に帰り、心配な顔をして出迎えたマキにことさら元気よく「ただいま」と笑顔で言った。その裏で、忠臣に何と言って報告すればいいのか思案もしていた。


 その夜、忠臣の帰宅は遅かった。数日前に、紀州沖でイギリスの貨物船が沈没し日本人に犠牲者が多数出る事故が起こった。その事故処理に、忠臣は多忙を極めているそうだ。


 忙しい忠臣に余計な心配をかけるわけにはいかない。帰宅した忠臣を、宙子は笑顔で出迎えた。忠臣の上着を受け取り、クロークに入る宙子の背中に声がかかる。


「今日の練習会はいかがでした?」


 くるりと振り返った宙子は少々すねた顔をして、今日の不快な出来事を他愛もない出来事にすり替えた。


「明子さまに、よくしていただきました……。でも忠臣さん、わたしが頑張り屋だと言いましたね。惚気られたとからかわれて、恥ずかしかったです」


「惚気てなどいません。本当に宙子さんはがんばっています。夫として誇りに思って何が悪いのですか」


 大真面目に返されあっけにとられたが、忠臣の気持ちにほんのり心があたたかくなる。このまま今日の話題が終わってくれればよかったのだが、そうはいかなかった。


「何か、ほかにありませんでしたか?」


 忠臣の少し落とした声音は、宙子の社交の場での身を案じてのことだろう。忠臣の心使いをうれしく思う反面、煩わせたくもなく宙子はにこりと笑い楽し気に話し出す。


「ダンスは最初カドリールを踊って、次のギャロップでは息が切れるほど楽しかったです。みなさま、よい人ばかりで……」


 そこまで軽快にしゃべっていた宙子の顎が、くっとつかまれた。


「嘘はいけませんね。あなたは嘘をつく時、ことさらいい笑顔になる」


「えっ、そうですか?」


 宙子は思わず両手で顔をおおいうつむいたのだが、忠臣が宙子の顔を上向かせる。


「隠しても、わかりますよ」


「あの、ダンスが楽しかったのは、本当ですよ」


 宙子は上目遣いで忠臣を見返した。


「では、よい人ばかりではなかったと」


 忠臣の何もかも見透かす琥珀色の瞳から、宙子は視線をそらす。


「あの、それは……」


 宙子は言葉を濁す。忠臣にどこまで言ったらいいものか。郁子たち若い娘がダンスもせず、奇怪な遊びをしていたと言うのは気が引けた。


「あの、知り合いになった方に、ちょっと悪意を持たれていたようで」


 こっくりさんの話をせずに、郁子と早紀子の話をやんわり忠臣に伝える。


「その方たちの名前は?」


 忠臣の詰問の声がいつになく、厳しい。


「そんなに気にしていませんから。大したことありません。どうか、名前を聞かないでください」


「そうはいきません。私の妻に悪意をもたれるなど、気分が悪い」


 いつも冷静で紳士的な忠臣が、悪い感情を隠しもせずに口に出している。


 なんだか忠臣さんらしくなくて、ますます言い出しづらいわ。


 宙子がしゃべろうとしないので、忠臣は赤く薄い唇の口角を上げ、意地の悪い笑みを浮かべた。とたんにいつも優雅な忠臣の顔に、なまめかしさが漂う。


「黙っていては、そのかわいらしい口に無理やり聞くしかありませんね」


 そう言うが早いが、忠臣は宙子の口をふさいでしまった。その口づけは深く、宙子の奥にゆっくり侵入してくる。そういうキスをされるのは、初めてではなかった。


 でもこのキスをされると宙子の頭は熱を出したように、ぼーっとなってしまい何も考えられなくなる。


 最近、忠臣は時々意地悪だ。宙子が困っている姿を見て、内心喜んでいるのではないかと、いぶかしく思う。


 でも忠臣の意地悪がけっして嫌なのではなく、キスの続きを期待してしまうから宙子は困るのだ。欲望を期待する気持ちは、はしたない。


 頭が働かなくなる前に忠臣の肩を押し、唇を離してもらった。


「言いますから、その前にお着替えください」


 忠臣の顔が勝ち誇ったようににやりと笑ったので、宙子はすこし悔しくなる。なぜか、負けた気になるのだ。



 

 忠臣は部屋着に着替え、居間の二人掛けの長椅子にゆったりと足を組んで腰かけた。その横に宙子も腰を下ろす。


「では、話していただきましょうか?」


 忠臣に急かされ、宙子は渋々郁子と早紀子の名を口にした。その名前を聞いて忠臣は怒りだすわけでもなく、口元を隠し微妙な顔つきをする。


「小松の姫か……」


 忠臣の歯切れの悪い台詞を聞き、宙子は怪訝な顔をした。


「早紀子さまのことを、ご存じなのですか?」


「いえ、お会いしたことはないのですが……。存じてはおります」


 煮え切らない忠臣の言葉に、宙子はさっきの仕返しとばかりに追い打ちをかける。


「はっきりおっしゃってください」


「はあ。小松伯爵は、うちと同じ大名華族で縁のあるお家なのですよ。それで、まあ……その……」


 忠臣のばつの悪い様子を見て、宙子はひとつのことに思い至る。


「ひょっとして、大殿さまが忠臣さんの婚約者とお決めになっていた方ですか?」


 ずばりと言った宙子の推測は的を射ていたようで、忠臣は切れ長の目を大きく見開いた。


「なぜ、その話を知っているのですか?」


 宙子が正直に古賀に聞いたと言えば、忠臣に責められるのではないかと思い小耳にはさんだとごまかした。忠臣は、横目で宙子の表情を伺う。


「私はまったくあずかり知らぬことだったのですが、先方はたいそう乗り気だったそうです」


 宙子は郁子と早紀子の態度が腑に落ち、すっきりとした。早紀子の中では忠臣の婚約者は自分だと思っていたに違いない。それなのに不意に現れた身分の低い宙子が、忠臣の花嫁の座を射止めたのだから、恨みたくもなるだろう。


 そんな憎く思っていた宙子が、鹿鳴館に現れた。友達思いの郁子が、こっくりさんを使って意地悪をしようと、早紀子に持ち掛けたのは容易に想像できた。


 事情がわかれば、二人に気の毒な事をしたと宙子は思うのだった。


「そういう事情なら、悪意を持たれても致し方ありませんね」


 あっさり宙子がそう言うと、忠臣は不服そうに宙子の顔を覗き見る。


「そういう感じなのですか?」


「そういう感じとは?」


 宙子は忠臣が何を言いたいのか理解できず、小首を傾げる。


「怒らないのですね」


「どうして、怒る必要があるのですか?」


 めったに不機嫌にならない忠臣が、いま明らかに不機嫌になっていた。


「私はあなたの婚約者候補が目の前に現れたら、嫉妬すると思います」


 忠臣はいたって真面目な顔つきで述べているが、ようは嫉妬してほしかったと言いたいのだ。


「わたしにそのような方は、いませんけれど」


 宙子には、忠臣の男心がまったく届いていなかった。


「もしいたら、という話をしているのです」


 嫉妬する、しないというこの言い合いは、犬も食わないというものだ。


「忠臣さん、今日もおつかれでしょ。肩でもおもみしましょうか」


 宙子は日課になりつつある肩もみをもち出し、忠臣の気をそらそうと試みる。


 忠臣に勉強を見てもらうお礼に、宙子は忠臣の体をもんであげていた。実家にいる時は、母にしていた行為だ。


 母は宙子にもんでもらうと、体が楽になると言い喜んでいた。自分ではそう喜ばれるほどうまくもないと思うのだが、母の喜ぶ顔を見るのはうれしかった。


 忠臣にも肩をもんだり首筋に手を当ててさすったりすると、疲れがとれると喜ばれた。しかし宙子の目論見など、忠臣にはお見通しのようだ。


「話をそらさないでください。それよりも、もう練習会は行かない方が」


「いえ、行きますわ。一回行っただけなんて、もったいない」


 宙子の負けん気に、忠臣は肩をすくめてため息をついた。


「そうだわ、スープでもいかがですか? 今日は牛肉から出汁を取ったのですよ、体が温まります」


 宙子は忠臣の体のことを思い、いそいそと台所に消えて行ったのだった。


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