第二章

第一話 渋皮煮

 宙子の左手の中に大きくつやつやとした輝きを放つ栗が、右手には包丁が握られていた。


 一晩水につけられた栗の一番硬い底の部分に包丁の角をあて、渋皮を傷つけないように硬い皮をむいていく。


「渋皮が破れたら、栗ご飯にしますのでよけてくださいね」


 台所の作業台を挟んで真向かいに座る小梅が、宙子に声をかけた。


「傷つけないって、なかなか難しいわ。実家では渋皮煮をあまりしなかったから」


 包丁を動かしながら宙子が言うと、隣に座るマキから声がかかる。


「渋皮煮は若殿さまの、好物なのです。イギリスから帰られて初めての秋ですので、楽しみにされているでしょう」


 今日は早く帰ると、朝に忠臣から聞いていた。


「忠臣さんは、甘いものがお好きよね」


 先日アリスのお土産のケーキを頬張り、子供のような笑顔を浮かべた忠臣を思い出し宙子は自然と口元がほころんだ。


 侯爵家の当主でありこの国の外交を担う重職についている忠臣が、宙子の前では子供のように喜ぶ。そういう姿を見せられると、失礼にもかわいいと思ってしまう。


 忠臣のことを思いはにかむ宙子は、小梅と目が合い表情を取り繕う。小梅は包丁を動かし続けながら、真面目な顔つきになった。


「甘いものは疲労回復にもよいそうなので、若奥さまも召し上がってください。昨日のダンスの練習大変そうでしたし」


 昨日は、アリスの家庭教師の日だった。テーブルマナーは数回で覚えられたが、そう簡単ではなかったのが英語とダンスだった。


 まずうつむきがちな姿勢を徹底的に直され、お腹に力をいれ真っすぐ立つことから始まった。その姿勢を保つには体の力を要した。


 アリス曰く、「ダンスは体力がつき、健康にいいです。動かない日本女性にはお勧めの運動です」とのことだった。


 運動というだけあって、宙子はダンスのレッスンが終わるとくたくたで翌朝には体のあちこちが痛い。実家にいる頃は、一日中家事をしていたからこんなことにはならなかったのに。


 少々情けない気持ちで宙子は小梅に、「ありがとう」と返答する。


「そうだわ。たくさんつくるから、母屋にも持って行こうかしら」


「そうですね、あちらでは渋皮煮は作らないみたいです」


 母屋のお勝手に頻繁に出入りしている小梅が、手を休めずに言う。スープや焼き物など、手の込んだ西洋料理は母屋の西洋料理もできる料理人とつくっているのだ。


 その料理人のことを小梅は、師匠と呼んでいた。


「小梅さんは、どうして西洋料理を習おうと思ったの?」


 宙子は、何の気なしに小梅に訊いた。


「西洋料理を、誰もやりたがらなかったので。下働きばかりは嫌だったんですよ」


 宙子は単純に、西洋料理に興味があったのだろうと勝手に思っていた。宙子の栗をむいていた手がとまる。


「西洋料理って、嫌なものなのね」


「嫌って言うか、新しいことってなかなか手を出しにくいじゃないですか。赤い肉を触るのが気持ち悪いって言う人もいますし」


 醤油やみりんで味付けした牛鍋は、親しまれるようになったが、本格的なステーキやビフテキになるとまだまだ庶民の口に合わないようだ。


「でも、すごいわ。小梅さんは」


「わたしみたいな田舎から出てきたものが、こんなお屋敷で奉公できるだけでも。恵まれています」


 小梅は下総しもうさの農家の出で、嫁ぎ先が決まっていたが相手が気に入らず家出同然で、東京へやってきたそうだ。それを聞いて宙子は、たいそう驚いた。


 この時代、女の方から結婚を拒むことはあり得ないのだ。


『相手がかつてのいじめっ子だったんですよ。そんな奴といっしょになれません。やっぱり、若奥さまのように好きな人と一緒になりたいじゃないですか』


 そう小梅が言いきったことに、後ろめたさを宙子は感じた。


 宙子と忠臣の結婚は幼い時の恋を実らせた、ということになっている。小梅からしたら、憧れる結婚なのだろう。


 でも、未だに宙子と忠臣の寝室が別なことも小梅は知っている。掃除をしているのは小梅なのだから、忠臣が客間を使っているのは察しているだろう。


 宙子からキスをしてから、二人の仲はなんの進展もない。忠臣が何を考えているのか、訊くこともできないでいる。


 そんなことを考えていると渋皮を破ってしまった。宙子は渋皮が破れた栗を、栗ご飯用の桶に入れたのだった。


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