第29話 狙われた姫①

 御所。時刻は昼。タケルヒコは執務室にて書簡の山に埋もれていた。目の下には隈がある。このところ満足に睡眠をとれていない。

 彼はゾラが間諜でることを見抜けなかったし、そのことによって多くの情報を流出させてしまったことに、多大な責任を感じていた。皇太子は自身に休養をとらせることを許さなかった。加えて仕事が山積みである。


 まず急ぐべきは国境の守りであった。今までは北の防衛を嗎吧姈まはれい族が担っていたため、平原に接する砦には必要最低限の人員しか置いていなかった。だが、嗎吧姈族(まはれい)が壊滅した以上は、今まで以上の人手が必要になる。

 さらに、朱瑠アケルに亡命してきた嗎吧姈まはれい族の戦士たちへの対応もある。この国の者の、北方の民への視線は冷たい。そういった状況でいかに彼らを保護するか、頭の痛くなる案件だった。彼らは長きにわたり我が国の防衛に尽くしてきたのだと言葉を並べてみせても、多くの者にとって「貊氊ばくせん貊氊ばくせん」なのだ。


 そういう状況であっても、御所では貴族たちの宴が開かれる。そこに集う者たちのもっぱらの話題は「朱瑠アケルは大丈夫なのか」だった。今にも異民族が攻めてくるのではないか、そうなったら家財をどうやって守ればよいか。皇太子は我々の財産を守ってくれるのか。もしかしたら、かつてどこかの国が行ったように、蛮族へのご機嫌取りとして、良家の娘たちを数十人と送り込むかもしれない……。同盟会議の内容は、限られた者たちにしか明かされていないため、どうしても憶測が飛び交う。仕事に忙殺されているタケルヒコは宴に出席していないが、代わりに六の姫ユズリハが、宴でささやかれている噂などを情報として耳に入れてくれている。そのどれもが心地の良いものではなかったが、六の姫は人を魅了する才能をいかんなく発揮しながら、皇太子はこの国を守るべく日々奮闘していると貴族たちに説いてまわっていた。


 タケルヒコの隣にはナナクサが座り、同じように書簡とにらみ合いをしていた。この一の姫は身体が弱かったが、最近はどこからか仕入れた薬がよく効いているとかで体調がよく、タケルヒコの仕事を半分引き受けている。

 そのとき、乱暴に扉が開き、数人の武官が踏み込んできた。


「何事か」


 タケルヒコが驚いて立ち上がると、先頭に立っていた武官が「突然の無礼をお許しを、皇太子殿下」と言った。


「ですが、事態は深刻です」

「何が起こったというのです。殿下の執務室に、許しも得ずに踏み入ってくる理由は。説明なさい」


 ナナクサが声を上げると、武官たちは奇妙な目で一の姫を見た。


「恐れながら、一の姫殿下。あなたには、反逆の疑いがかかっています」

「……今、なんと?」


 ナナクサは呆気にとられて、問い返した。あまりにも馬鹿げていたからだ。


「私が国に反逆したという根拠は」

「それはあなたがよくお分かりではないか?」


 武官は言って、床に紙の束を放った。それはナナクサとゾラがやりとりしていた、将棋の勝負譜だった。


「なるほど」


 ナナクサはうなずいた。


「私が、例の間諜の男と文通していたからですね。ですが、その件は包み隠すことなく陛下や皇太子殿下、将軍たちをはじめ同盟会議に出席している皆様にお伝えしました。手紙の内容もすべてご覧いただき、私がこの国の情報を漏らしていないこと、手紙がただの将棋の勝負に過ぎないことを確認していただきました」

「だが、あの男はあなたの寝所に忍び込んだことがあったはずだ」


 その言葉に、ナナクサはまなじりをつり上げる。だが事実、ゾラはナナクサの宮に忍んできたことがあった。否定はできず、ナナクサはやむなく沈黙を選ぶ。武官の言葉に含みがあることに気づいたとしても。


「それ以上、我が妹を貶めることは許さぬ」


 タケルヒコは静かに、しかし決然と言った。


「一の姫が個人的にあの男と会ったことがあるにせよ、すでに身の潔白の証明は済んでいる。今更なぜ反逆の疑いをかけられることになるのか」

「言うまでもないことです」


 武官は呆れたように首を振った。


おんなというものは、一度許されれば、自分は特別なものだと錯覚し、同じ過ちを再び繰り返すものです」


 ナナクサは顔色を失った。あまりにもひどい侮辱を受けたことを、もはや理解することすら拒絶していた。


「そなたには、宮中に仕える者が備えるべき良識というものが欠如している。暴言にも過ぎよう」


 タケルヒコは妹の肩を支えながら言った。その額には青筋が立っている。温厚な皇太子がここまで怒りをあらわにするのはめったにないことであった。


「そなたの言葉は、ただ女人を差別的に侮辱したに過ぎぬ。なぜ明確な証拠を提示しない」

「証拠ならありますとも」


 武官は得意げに言った。


「イルファン大公国が例の間諜を捕らえ、尋問した調書が、先ほどもたらされたのですよ」

「なに」

「皇太子殿下、並びに一の姫殿下」


 ご同行いただきます、と武官は有無を言わさぬ語調で告げた。

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