第34話 狙われた姫⑥

 出立の準備には丸二日ほど要した。オトワは旅に必要と思われる装備や馬の手配をしてくれた。平原へ向かう旅は過酷なものになると思われる。タケルヒコとアスマはひたすら英気を養うことに専念した。ナナクサは、アカサギ家の蔵書を片っ端から読みあさっていた。

 三日後の早朝、目を覚ましたタケルヒコは、先に起きていたナナクサが旅装しているのを見て驚いた。


「そなた、まさかとは思うが……」


 ナナクサは腰に手をあてる。


「私も一緒に行きます」


 タケルヒコは「ならぬ」と首を横に振った。


「そなたはここで療養するべきだ。オトワ殿にもすでに頼んである」

「たしかに、私は身体が強くありません。厳しい旅には耐えられないでしょう。以前の私であれば。ですが」


 ナナクサは懐から紙包みを取り出す。


「癪なことに、あの男から譲り受けたこの薬は、本当によく効くのです。今ならば、常人と同程度には動くことができます」


 たしかにナナクサは、数日前まで毒を盛られていたことなど感じさせないような回復ぶりを見せていた。アカサギ邸に逗留している間は食欲も旺盛であったし、肌の色艶も普段とは比べものにならない。


「それに……私は、あの男に一言もの申さなければなりません」


 なるほど、とタケルヒコは納得した。ナナクサは、自分を嵌めた男に文句を言いたいのだ。


「兄上、どうか私を連れて行ってください。必ず役に立ちます」

「ナナクサよ、この旅は命を賭けたものになるのだぞ。そなたに万が一のことがあれば、私は悔やんでも悔やみきれない」

「それは私も同じです、兄上」


 言われ、タケルヒコはまばたきした。ナナクサはやや鋭い目つきで兄を見つめている。


「兄上は、命を賭してバディブリヤ氏族の長に会いに行こうとなさる。それなのに、私だけがぬくぬくと、何もせずに、ただこの屋敷で守られて過ごすことができましょうか。それでもし、兄上に何かあっても、私は知ることもできないのですよ」


 ナナクサの言う通りだった。タケルヒコが道半ばで命を落としたとしても、ナナクサはただ待つことしかできない。彼女は永遠に待ち続けるはずだ。ずっと。

 残されるほうの苦痛を、タケルヒコは考えたことがなかった。


「兄上」


 ナナクサは言った。


「私は、今、生まれて初めて自由というものを感じています。御所を離れた今、自分の進む道を、自らの意志で選択できる。そして私は、安全な籠の中より、自由で残酷な外の世界を選びます」

「そなたは……」


 タケルヒコは手を額にあてた。


「兄に、辛い選択をさせる」


 ナナクサに同行を許すか、許さないまま彼女が後をついてくるか。


「……分かった」


 タケルヒコはゆっくりうなずいた。


「そなたの知識は必ず助けになる。手探りの道を照らす灯明のように」


 ナナクサはにっこりと兄の手を取り、うなずいた。


「兄上はきっと成し遂げられます。行きましょう、平原へ」


 そのとき、離れの扉をトントンと叩く音がした。


「私よ。二人とも起きているかしら?」

「ああ、少し待ってくれ」


 タケルヒコは素早く衣服を整え、扉を開いた。


「いよいよ今日出発ね」

「そのことなのだが……」


 タケルヒコが、ナナクサも同行することを伝えると、意外なことにアスマは驚かなかった。


「やっぱりね」

「……どういうことだ?」


 拍子抜けをしたタケルヒコに、アスマは言う。


「だってあなたたち、二人で一人みたいなもんじゃない。こうなるんじゃないかって思ってたわ」


 彼ははじめから分かっていたようだ。タケルヒコは苦笑して頬をかく。


「それはそうと、朝餉にしましょ。もしかしたらまともな食事はこれが最後かもしれないから、味わって頂かなくちゃね」


 朝餉の席で、オトワは黙々と食事をする三人をじっと眺めていた。オトワを除けば、この国の者は誰も、彼らが無謀な賭けに挑もうとしていることを知らない。朱瑠アケルにとってかけがえのない皇太子と一の姫が失われるかもしれない。その可能性を潰すなら、オトワが御所に、彼らがここにいることを報告すればよい。だが彼女はそれをしなかった。アスマから、一の姫が暗殺されかけたことを聞いたとき、オトワは陰謀のにおいを感じ取った。一の姫に毒を盛り、刺客に襲わせた者の本当の狙いは、皇太子だ。彼の失脚こそが、黒幕の望み。そのために、まずは皇太子を側で支える一の姫を最初の標的としたのだ。


 一の姫を守るために皇太子が御所から消えたことで、黒幕の目的は達成されたに等しい。だが、皇太子の行方を、黒幕は知らない。それはつまり、皇太子が自由に動けることを意味している。黒幕もまさか、皇太子が平原に向かうとは夢にも思うまい。皇太子がバディブリヤ氏族のもとへ赴き、和平を勝ち取って凱旋したなら、その功績は誰もが認める偉業となろう。


 そして、皇太子が消えた御所で、実権を握るのは誰か。それを見極めれば、おのずと黒幕の正体も明らかになるはずだ。それによってアカサギ家が今後どう動くべきか、注意深く考えねばなるまい。

 アカサギ家は、皇家と並ぶ歴史を持つ家だ。長い歴史のなかで、皇家に反目したこともある。だが、現在まで血を絶やすことなく続いてきた。それは世の趨勢を見極める先見の明を、本家、分家の当主たちが発揮してきたからだ。そしてオトワは時代の流れを生み出す渦の中心は、他でもないタケルヒコにちがいないと踏んでいた。今はまだ小さな渦に過ぎないけれど。


「私からのはなむけとして、お渡しするものがあります」


 オトワは言い、卓の上に細長い箱を置いた。

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