第33話 狙われた姫⑤
「ここは?」
「私の親戚の家よ」
アスマが馬車から下り、門を叩く。ややあって、内側から誰何する声した。
「私だ。アスマ・アカサギ」
アスマは「堅苦しい」仮面を装着したようだ。
すぐさま門が開き、中から下男らしき男がひとり出てきて、頭を下げる。
「本家の若様」
下男は、突然の――しかも夜更けの――訪問の理由を尋ねることもなく、三人を屋敷の中へ案内した。
「このお二人は私の大切な客人だ。離れの方にお通ししなさい」
アスマが言うと、下男は「では、お二方、どうぞこちらに」とタケルヒコとナナクサをいざなった。
「私はこの家の主人に挨拶をしてまいります」
アスマはそう言って、廊下の奥に消える。
下男のあとについて歩きながら、ナナクサはタケルヒコに耳打ちした。
「兄上、この家は――」
「アカサギ一族の、分家のひとつのようだな」
アスマは本家の生まれだ。だから融通がきくのだろう。
この国で最も有力な貴族の筆頭ともいえる、アカサギ家。官吏や皇妃を幾人も輩出している家だ。分家といえど、その力は計り知れない。たとえ消えた皇太子と一の姫を捜索しに役人がやってきたとしても、門の前で回れ右をするしかないだろう。
そういえば、父帝の最初の皇妃はアカサギ家の出身だったはずだとタケルヒコは記憶していた。しかし、今となってはそれはなかったことになっている。宮中ではその話題に触れることが禁忌であったため、タケルヒコは詳細を知らない。だが、その妃に関する出来事が原因でアカサギ家は一度力を失いかけたのだ。その後、領地内に塩湖が発見されたことで莫大な富を得、朝廷に返り咲いた。
二人が通された離れは、こじんまりとしており、色味を抑えた質素な内装に、必要最低限の調度品が備えられていた。客室にありがちな華美な装飾はなく、どれも実用向きで、この家の主が財力を誇示する性格でないことがうかがえる。
ナナクサは早速寝台に倒れ込んでいた。薬を飲んだとはいえ、毒はまだ彼女の身体に残っている。ゆえにいま最も必要なのは休息だ。タケルヒコは妹に布団をかけてやり、自らは長椅子に座った。
部屋の中央には炉があり、下男が火をいれている。彼はてきぱきと客人が過ごしやすいよう部屋を整えると、静かに退出した。
入れ違いにアスマが入ってくる。その後ろにもう一人いた。
「皇太子殿下、ようこそ我が家へいらっっしゃいました。アスマの叔母で、この家の当主、オトワと申します」
深々と頭を下げた老女は、寝台で眠っているナナクサをちらりと見やり、声を少しおさえた。
「おおよその事情は甥から聞きました。殿下がここにいらっしゃることは決して口外いたしませんし、必要な支援をさせていただくことをお約束いたします」
タケルヒコは長椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「痛み入る、オトワ殿。そして夜遅くに訪ねた非礼をお詫びする」
女主人は恐縮したように「頭をお上げください」と言った。
「一の姫様のご容態はいかがです」
「移動中に薬を飲ませたゆえ、大事はない。今は疲れて眠っているが」
オトワは痛ましそうな表情を浮かべる。
「賊に襲われたとのこと、さぞかし怖かったでしょうね」
ナナクサが寝返りを打ち、布団の中で胎児のように縮こまった。
オトワが「今夜はゆっくりお休みください」と退出したあと、アスマがタケルヒコの隣に腰を下ろす。いつのまにか茶を淹れていたらしく、湯飲みを差し出しながら、「平原にはいつ出発するつもりなの?」と問う。
タケルヒコは答えた。
「準備が整い次第、すぐにだ。
私は彼らを知らなければならない、とタケルヒコは言う。
「我々は今まで、平原の民というものを、どこか得体の知れぬ恐ろしい存在のように感じてきた。それは私たちが彼らを知ろうとしなかったからだ。同盟を結んでいたマハリリヤ氏族でさえ、化外の民と蔑んでいた……。そこに対話や理解が生まれようはずもない。だが、同じ人間である以上は、分かち合える部分もあるはずだ。私たちが自らの殻を破ることによって」
アスマはしばらく黙って茶をすすっていたが、やがて口を開いた。
「長い年月の中で、私たちと彼らの間に横たわる溝は深いわ」
香り高い上質な茶の風味が、すっと鼻に抜けていく。アスマは茶を淹れるのが得意だ。そして、皇太子は酒よりも親友の淹れる茶の味を好んでくれている。
「そなたの言う通りだ。私が赴いたとて、彼らに拒絶されてしまえばそれまでだ」
タケルヒコは茶の香りをひととき楽しんでから、そっと口に運んだ。
「だが、私が行かなければ、この先二度と、
「行っても、最悪殺されるわよ」
アスマは空になった湯飲みをじっと見つめる。
「タケルちゃんがすべてを賭けても、何一つ報われないってこともある」
タケルヒコは苦笑した。
「そうかもしれぬな。私は御所でこれまで通り粛々と執務に取り組んでいたほうが良いのかもしれぬ。だが、それはもう、いつ崩れるか分からぬ仮初めの日常を続けていくことにしかならないのだ」
茶を飲み干し、タケルヒコは湯飲みを置いた。
「私は変えたい。たった一歩でもよい。この国と、平原の民が、ともに明るい方へ踏み出せるように。これ以上血の流れぬように」
「大きな理想に対して、本当に小さな、しかも不確かな一歩だわ」
アスマは容赦なく言う。
「でも、誰にもなしえなかったその一歩目を、タケルちゃんが踏み出すのを、見たいとも思うわ。当然、私も連れて行ってくれるんでしょう?」
タケルヒコはじっとアスマを見つめ、瞳に決然とした色を浮かべた。
「アスマよ、私の旅を支える杖となってくれ」
その夜はしんと冷え込んでいたが、二人の胸には熱い炎がともっていた。
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