第26話 大北壁にて①

 イルファン大公国と北方大平原の境界線、大北壁。その長大な砦は灰色の大蛇のごとく、鱗に似た石組みの剥落をところどころに晒しながら、大地に横たわっていた。

 壁の内側には大公国第一公子の陣が展開されている。陣といっても、いるのは傭兵ばかりではない。そこには各地から集まってきた反物売りや穀物売り、武器商人に小間物屋、毛皮商、博労、それに旅の途中で主人を失った行き場のない元奴隷たちがひしめきあっている。彼らによって陣内はあまたの人種、言葉、文化の行き交う交易地と化していた。


「大義であった、とは言わんぞ」


 そう言うのは、大公国第一公子ダーロゥである。ここは彼の執務室で、机を挟んだ向かいには弟のユウジュンの姿があった。


「本来であれば、お前は朱瑠アケルにいるべきなのだ」


 ダーロゥは机を指でトントンと叩いた。

 ユウジュンは兄からの説教を甘んじて受けた。人質という名目でさえなければ、大陸の宝玉と名高い帝都に行ってみたかったのは他でもないこの兄だ。それなのに、代わりに赴いた弟が、帝都到着の手紙も届かぬうちに帰還したのだから、小言も言いたくなるというものだ。


「申し訳ありません、兄上」


 ユウジュンは素直に頭を下げた。が、すぐに頭を上げ、本題に入った。


「捕らえた二名ですが、処遇はいかがいたしましょうか」


 ダーロゥは弟をじろりと見、「当然、尋問する」と答えた。


「とくに間諜の男――〝疾風のゾラ〟は念入りに取り調べを行え。娘のほうは――」


 ダーロゥは考えた。少女は、全く予期せぬ捕虜だった。ゾラに連れられていたということは、何かしら関係があるのは間違いない。この少女も朱瑠アケルに潜入していた間諜なのだろうか?


「あらゆる可能性を視野に入れ、娘のほうも注意深く調べろ」


 ダーロゥは立ち上がり、窓辺に寄って外を眺めた。大北壁の外側は、北の民たちの領域だ。少し目をこらせば、地平線に馬を駆っている民の姿をみとめることができる。彼らが間諜を使うなどと、少し前ならば考えられぬことだったが、アンダム・ジュスルが朱瑠アケルと同盟を結び、北原将軍の称号を与えられてからというもの、南の国々の戦略が平原にも取り入れられ、大陸の状況は一変した。もしかしたら、警戒されぬよう、子どもを間諜に仕立て上げて使ったのかもしれない。


朱瑠アケル側は、間諜を捕らえたのならすみやかに送還しろと催促してくるだろうな」

「おそらくは」

「だが、あの男はこちらの手の内にとどめておきたい。理由は分かるな」


 ユウジュンはうなずいた。ゾラはマハリリヤ氏族の生まれでありながら、バディブリヤ氏族に与する間諜である。マハリリヤ氏族が敗北した原因も、そこにあるのだろう。また、ここ数年で急成長を遂げたバディブリヤ氏族に関する情報も、この男から引き出せるかもしれない。これをただで朱瑠アケルに渡してやるほどの度量を、大公国の為政者たる第一公子が持ち合わせるはずがないのであった。


「理由をつけて、帝都に奴を送還するのを遅らせるのだ。場合によっては、自害したと伝えてもかまわん。朱瑠に送るのにかかる日数は、考えただけでも時間の無駄だ」

「承知しました。取り調べはお任せを」

「手を抜くなよ」


 兄の言葉に、ユウジュンはうなずいた。


「必ずや、兄上にご満足いただけるようにいたします」


 ユウジュンは一礼し、部屋をあとにした。

 弟が退出したあと、ダーロゥは再び窓の外に目を向けた。背後の廊下からは、「第二公子殿下、お帰りなさい!」「お久しゅうございます、ユウジュン殿下」と傭兵たちの声が聞こえてくる。外からは「第二公子殿下のご帰還だそうだ」「ひとことご挨拶を」と色めき立つ傭兵たちの様子が伝わってきた。


 ダーロゥは窓から目を離し、机に山と積まれた書類に視線を向ける。

 父である大公より国境の守りを任されてからというもの、ダーロゥは幾度も国境を侵す平原の民からこの砦を守ってきたが、ここ数年はその戦いも激しさを増していると感じる。にもかかわらず、国境に接するこの危険地帯においても、市は立ち、商人が集まる。というのも、イルファンは朱瑠アケルのような周辺国ほど、自国の商業が発達しておらず――一人前の男ならば武術の腕を磨くべきで、商売はそれに劣るものという古い価値観に囚われているがゆえであった――異国から入ってくる品々をなんでも重宝して受け入れるという特徴があるからだ。他の市場で失敗した者でも、イルファンに来れば商売を立て直せる。また、ここ大北壁はイルファンの中でも特に数多くの傭兵たちが集まり、入れ替わりも激しく、そのために需要が大きいのであった。


 積まれた書類は、戦いで命を落としたり、負傷して戦線を離れなければならなくなった傭兵たちに関する報告書から、捕らえた捕虜を尋問して得た情報をまとめた調書、あるいは市場に集まった商人たちからの要望書など、多岐にわたっている。

 この砦が守っているものは国境だけではない。貴重な商業、文化の交流、大公国の面子、そういったものがダーロゥの肩に重くのしかかっていた。


 責務を粛々とこなしてきた自負はある。だが、多くの武人が憧れるような武勇を、彼はなしえたことがなかった。国都で行われた武術大会でも、彼はユウジュンに敗れ、優勝を逃した。武術の才能においては、弟のほうが秀でていると言わざるをえない。もちろん、ダーロゥは大公家の者として恥じない程度の武術を身につけていたが、逆にいえばそれだけだ。彼は自らの凡庸さを認識しないわけにはいかなかった。


 ゆえに、弟がゾラを捕虜として、砦に帰還したときには、喉の奥に苦いものがつっかえたような心地になった。傭兵たちは、ユウジュンの功績をたたえ、褒めそやすだろう。平原の民との交流を持つイルファンの者であれば、マハリリヤ氏族最高の騎乗者〝疾風のゾラ〟を知らぬ者はいない。かの者がひとたび鞍にまたがれば、天翔るがごときその速さに、追随できる者はいないという。今回は少女をひとり連れていたにせよ、そのゾラを朱瑠アケルから追跡し、見事捕らえてみせたユウジュンは、またひとつ名声を手にしたわけだ。


 それでも、兄としての立場は示し続けなければならない。いかに心中複雑な思いを抱えていようが、兄として、また砦の主として、泰然自若とした姿勢を見せなければならないのだ。

 ダーロゥは軽く首を振る。くだらぬことに心を悩ます暇はない。まずは国都にいる父に、こたびの顛末を報せる手紙をしたためなければ。ダーロゥは机に座り直した。

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