第25話 襲撃者と影⑤

 その役人は、ある町医者の家の前を見張っていた。彼の階級は相当に低いものであった。ゆえに、一体なんの目的かも分からぬ雑用を言い渡されるのは日常茶飯事のこと。今日はまた、町医者の老人が匿っているとされる男が、その家から出てきたらすぐに報告するようにという仕事を仰せつかっていた。罪人というわけでもなく、ただ祭りで騒ぎを起こしただけの男をだ。理由をそれとなく上司に尋ねてみたが、「上からのお達しだ」という答えが帰ってくるのみ。上司もまた、理由を知らないのだろうと彼は察した。夜まで見張っていろと言われ、げんなりしつつ、命令には従うほかなかった。


 暇で仕方がなかったので、役人は近くの屋台を冷やかしたり、通りかかる町娘を眺めたりと不真面目に過ごしていた。

 そのとき、町医者の家で動きがあった。門が内側から開き、外に出てくる者がいたのである。とうとう目的の男か、これで帰れる――と色めき立った役人だったが、現れた人物を見て落胆した。女だったからだ。だが、役人はその女を見て、やや気を取り直した。というのも、その女というのが、なかなか見映えのする見目をしていたからだ。


 はっきりとした眉は眉墨要らずで、整った形をしている。その下の瞳は春の水面のようなうるうるとした輝きをたたえつつも、すっと涼しげである。鼻筋は通り、唇は薄く花びらのよう。後頭部で結い上げ、背中に垂れ下がった髪の振れ動くさまは風になびく柳の葉。

 着ている衣も悪くなかった。真朱まそほの上衣に蘇芳すおうの裳袴。衣だけ見れば華やかだが、その女が着ると落ち着いて見え、実に雅やかであった。

 役人が咳払いをすると、女の視線がこちらを向く。


「そこなおなごよ」


 役人は精一杯胸を張って、女に声を掛けた。


「はい、何か?」


 返事をする女の声は存外低く落ち着いていた。役人は女の前に立ち、


「この町医者の家に、若い男がひとり、身を寄せていると思うのだが、なにか知らぬか」


 女は「男の人ですか?」と首をかしげる。


「ええ、たしかにいましたよ。怪我をして老師せんせいの手当を受けているとか言って」


 やはり、カンという町医者が件の男を匿っているのは間違いないようだ。

 女は老師の家を振り返り、不安そうに尋ねた。


「その人がなにかしたんですか? 悪い人なんですか?」

「いやなに、その者に少し話を聞きたいだけだ。――手間を取らせたな。行ってよいぞ」


 女が行ってしまうと、役人はひそかにため息をついた。どうやらこの仕事は長引きそうである。当分帰れないのを覚悟すべきだろう。


*   *   *


 テルは角を曲がり、役人の姿が見えなくなると、ぺろりと舌を出した。あの役人には気の毒だが、今しばらくあそこに突っ立っていてもらおう。

 テルはすっかり麗人のいでたちとなっていた。着物はカン老師の奥方が若い頃に着ていたものだ。老師は奥方の使っていた品々を、今でも大事に取っていたのだ。

 テルは借りるつもりでいたが、老師は「やる。どうせ着る奴もおらんのじゃ」と譲ってくれた。

 着物をまとったテルを見た老師は、どこか懐かしいものを見つめるような、物寂しい瞳をしていた。

 老師との別れは湿っぽいものとは言いがたかったが、これまで過ごした三年分の感傷がこみ上げてくるには十分だった。

 老師とはもう二度と会うことはないかもしれない。そう思えば、胸の奥に北風が舞い込んだかのごとく、すっと冷え込むのを感じる。

 それだけでなく、実際外は寒かった。テルは通りかかった店で外套を求めた。金はこれまで貯め込んできたわずかな財産と、カン老師からの餞別が少し。それらは財布に入れず、小分けにして服のあちこちに隠している。


 乾いた風が空から吹き下ろす。甲高い声が響き、上を見上げると、一羽の鷹が西へ向かって飛んでいく。

 目指すは大北壁、イルファン大公国だ。ミリはそこにいる。

 それは長い旅路の幕開けであった。

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