第24話 襲撃者と影④

 はっと我に返ると、テルはもといた部屋に戻ってきていた。瞳から流れる血は止まっており、頬に汚れとして留まっている。テルは袖で血を拭い、瞬きした。


「今のは?」


 虚空へ問いかけると、身体がにわかに熱くなる。まるでさなぎから蝶が抜け出すがごとく、黒いもやが立ち昇り、テルから分離した。


『それは、呪いが君に与える力の一つ』


 もやが人の形をなし、背後に立つセゥル。振り返ると、彼は喜びとも悲しみともつかぬ表情でこちらを見つめていた。


『ようやく、望む景色を得られるようになったか』


 セゥルは『幻覚などではない』と言った。


『今、君が見たものは、まぎれもない真実――遠く離れた地で実際に起こっていることだ。この力を分かりやすく表すなら、そう、〝千里眼〟と言う』

「千里眼――呪いの力――」


 テルは「そんな力が」と唖然となった。


『君が破滅へと近づいた証だ』

「破滅……」

『呪いに魂を喰われ、死と戦いの申し子となることだ』


 セゥルは自身の剣に目を落とし、『かつて、朱瑠に攻め入る前のことだが』と話し始めた。


『私は平原を統一した。その時に多くの血を流した。私が呪いに喰われたのはそのときだった。呪いは私にさらなる力を与え、私は勢いに乗って都に攻め上ったのだ』


 全盛期を迎えたマゥタリヤ氏族。その族長、セゥル・タハン・マゥタリヤ。怪力、千里眼に加え、味方の心から恐怖を消し去る力までも与えられた。恐れを忘れた戦士たちは、たとえ手足がもげようとも戦い続ける傀儡と化した。


『まこと、人の域を超えている。私は、神になろうとさえしていたのかもしれない』


 セゥルは己の愚かさを自嘲するように、短くため息をついた。

 テルはごくんと喉を鳴らした。


「なぜ――」

『分かっている。なぜ今になって呪いが君に力を与えたのか、だろう。人を殺してもいないのに』


 セゥルは、テルの両目を指さした。


『その目は、今までに何度か血を流し、幻のような光景を映したことがあったはずだ』


 たしかに、あった。銀の谷で暮らしていた頃、ミリと出会う以前からも、テルの双眸は突然の出血を起こすことがあった。そのときは決まって幻覚を見たものだ。


『銀の谷では、君はその高潔さをかなぐり捨てなければならない場面がいくつもあっただろう。生きるために、暴力を行った』


 その言葉にテルの心臓が嫌な鼓動を刻み始める。無意識のうちに握りこんだこぶしが、ぶるりと震えた。

 坑夫として生きるということは、ただ土に潜って銀を掘ることだけではない。過酷な労働、少ない食糧、わずかにも満たぬ休息。労働はできるだけ少なく、食糧と休息はできるだけ多く――と望めば、おのずと争いが生まれる。坑夫たちは徒党を組み、同じ集団に属さない者には容赦しなかった。

 テルには常人離れした怪力があったがゆえに、仲間からは頼られ、そうでない者からは恐れられていた。こぶしに物を言わせる場面には必ず引っ張り出され、テルはそのたびごとに感情を殺してその要求に応えたのだった。


『呪いはそのときすでに力を君に与えていたのだ。君にただ自覚がなかっただけのこと』


 テルの瞳孔は開き、呼吸は浅くせわしなかった。脳裏には許しを乞う者たちの歪んだ顔が落雷のようにちらつき、悲鳴やうめき声が耳の奥に蘇る。

 すっかり血の気が失せたテルに、セゥルは言う。


『呪いが与える痛みも、過去の己の所業による苦しみも、君のすべてを呪いに明け渡せば、感じることもなくなるだろう』


 そういう選択肢もあるのだよ、とセゥルは示す。

 テルはきつく目を閉じ、首を振った。自分は最後まで自分でありたい。


『では問うが、君自身とは一体なんだ?』


 セゥルはあくまでも穏やかに、言葉を投げた。


『君は己が生まれた由来、過去を捨て去った。性別も失われた。君という存在を形作るものは、そう多くない。それはしがみついてでも守る価値のあるものなのか?』

「私は」


 テルはあえぎながら訴える。


「私は、今ここに生きている私自身だ。それ以上でもそれ以下でもない。むなしい存在なのかもしれない。それでも私は生きている。そこに意味などなくとも」


 ふと、唐突に、テルは気がついた。人は、生きる意味なくしては生きられない。自身が何者なのか、その答えをすでに失った自分が求めたもの――それは第二の自分だ。テルはそれを、他でもないミリに求めたのではないかと。

 ミリの親であり、運命を分かち合う存在。それを唯一のよすがとしていたのではないか。だから、ミリを探しに行かなければならないのではないか。


 銀の谷では、自分を失ったままで良かった。ただ身体を動かすことだけを考え、余計なことを思考する必要がなかったからだ。しかし、テルは谷を出た。ミリが一緒にいたから、かろうじて「ミリを助け、ミリに救われたテル」という自己を保てていたのだ。ミリを失ってしまえば、なにもかも無になってしまう。それが恐ろしいのだ。

 テルは己が空虚であることに気がついている。その穴を埋めるすべを、あの少女に見いだしている。しかし、そうやって手に入れた自分は本当の自分と言えるのか? 他者に依存することで得られた満足感は、それもまた空虚なものではないのだろうか?


『君はただひたすら放浪する魂だ』


 セゥルが言った。


『君は君自身を生きるといい。そこに意味などなくとも、あとから意味が生まれることもあるかもしれない』


 セゥルの姿が徐々に薄くなっていく。


『君が捨てたもの、その一つを今ここで拾って返そう。――テルナミ、君の名前だ』


 セゥルは黒いもやとなり、テルの身体の中へ戻っていった。

 カン老師が外から戻ってくる気配がする。


「奴ら、お前さんを探しておるよ」


 ふすまを開けながらカン老師は言った。


「妙なことに、ミリ坊のことは眼中にないらしい。なんにせよ、ほとぼりが醒めるまでは動かんほうがいい」


 テルはしばし呆然としていたが、我に返って尋ねた。


「彼らは誰の命令で動いているんです。令状は」

「分からん。令状もない」

「……妙ですね」


 テルを罪人――祭りで騒ぎを起こした咎――で捕らえようとするならば、都府長官の名において発行された令状が必要だ。それがないということは、テルは罪人ではないということになる。にもかかわらず役人が捜索しているということは、つまり、彼らは公的でなく私的な命令を受けて動いているということに他ならないのではないか。表沙汰にはできない理由で。

 なにやらきな臭い。騒ぎの中心にいたミリにかまわず、テルのみを探しているという点も怪しい。

 ともあれ、お尋ね者になった以上、この町に留まる理由はなくなった。

 テルは老師に向かって正座した。


「今まで私とミリがやってこられたのは、老師せんせいのおかげです。このご恩はいつか必ず返します。ですが、今は行かなければなりません」


 お暇を告げさせてください、とテルは頭を下げる。カン老師はしばしじっとこちらを見ていたが、やがて深々とため息をついた。


「わしには、お前さんを力尽くで止めることなどできん。行くなら行け」

「ありがとうございます」


 問題は、どうやって外に出るかだった。役人に見つかれば、引っ立てられることは間違いない。テルは部屋を見渡し、先ほどの鏡台に目を留めた。


老師せんせい、もしまだお持ちでしたらお借りしたいものが――」

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