第23話 襲撃者と影③

 重い身体を引きずるようにして、カン老師の長屋の前にまで辿り着いたテルははたと足を止めた。

 表で数人の男たちがカン老師をとり囲んでいる。官服を着ていることから、役人だと分かった。テルはそっと物陰に身を隠し、息を潜めた。漏れ聞こえてくる役人たちの会話の中に、「貊氊ばくせんを連れた若い男」という言葉が含まれていたからだ。

 役人たちが立ち去ってから、テルはそろそろと物陰から出た。念のため裏口のほうに回ると、カン老師が待ち受けていた。


「お前さんが陰に入るのがちらっと見えたでの」


 老師は消耗しきったテルの姿を上から下まで見ると、「入れ」と中へ迎え入れた。一晩どこに行っていたのかとは訊かなかった。

 戸口から一歩、中に入った。テルはにわかにめまいに襲われ、そのまま倒れ込む。そこからの記憶はない。


 目を開けると、目の前にすすけた天井があった。長屋ではなく、カン老師の家のそれであった。

 テルは視線を巡らす。少し離れたところに背を丸めて老師が座っているのが見えた。


「起きたかい」


 カン老師は炉に炭をくべながら、煙草をふかしていた。テルは、その独特なにおいが自分を目覚めさせたのだと悟った。同時に、自分は一体どれほど寝ていたのだろうかとも考えた。


「三日だよ」


 カン老師が見透かしたように答えた。テルは呆然と「三日……」とつぶやく。

 やがて思考がはっきりしてくると、目を見開いて飛び起きた。


「三日ですって?」


 テルは聞き返し、布団をはねのけながら飛び起きた。途端に視界が空転し、ひっくり返る。


「これ、安静にせんかい」


 よっこらしょと立ち上がった老師が、枕元にやってくる。


「ミリ坊が一緒でないことといい、役人がうちへ来ることといい、お前さん、厄介ごとを抱え込んだようじゃな」


「しかも」と老師はテルの腹を指さす。


「その怪我はどうした。誰にやられた。治療したのは」

「これは……」


 テルはかいつまんで話す。祭りのあとにミリを狙った人買いの一味に襲われたこと。ミリと同郷だというゾラに救われ治療を受けたこと。そのゾラがミリを連れ去ったこと。


「迂闊でした」


 テルはほぞをかむ。


「一瞬でも、気を抜くべきではなかった」


 親として失格だ。テルは己のふがいなさに苦々しくため息をついた。


「しかも、あれから――三日も経ったなんて」


 するとカン老師がじっとテルを見つめ、「まさかお前さん」と言う。


「ミリ坊を探しに行くつもりだったのか?」

「当然でしょう!」


 テルは憤った。老師はしかし、「やめておけ」と言う。


「この国におるより、故郷へ戻ったほうが、あの娘にとっては幸せかも分からん」


 それはそうかもしれない、とテルは考える。ミリが貊氊ばくせん人だと知れ渡ったからには、この町にはミリの居場所はもうないに等しい。同じマハリリヤ氏族の仲間に囲まれて過ごしたほうが、はるかに安全だ。


「北原将軍は、娘であるミリを大事にしてくれるでしょうか」

「ちょっと、待て」


 老師が怪訝な顔をした。


「今、なんと言った? 北原将軍だと?」

「ええ。――実はミリの父親は、あの北原将軍だったんです」


 テルが打ち明けると、老師はにわかに眉間にしわをよせ、険しい表情になった。テルは嫌な胸騒ぎを感じる。


「北原将軍の、嗎吧姈まはれい族は壊滅したよ」


 老師が煙草の火を消し、燃えかすを炉に放り込みながら告げた。あがきのような細い煙がひと筋、立ち昇ってすぐに消える。


「なんですって?」


 テルは瞠目した。老師はマハリリヤ氏族が滅んだと言ったのか。ならば、ゾラは――どこにミリを連れ帰ろうと言うのだ?


「都はその話でもちきりじゃ」


 老師は言い、炉の側に放ってあった瓦版を引き寄せて渡してくる。テルは受け取って素早く目を通した。そこには、朱瑠アケルと同盟を組んでいた嗎吧姈まはれい族が、螞弖仆ばていふ族に敗れ去ったことが書かれていた。


「眉唾物ではないのですか」

「読売に情報の出どころを確かめてみた。どうやら真実のようじゃの」


 テルは再び瓦版に目を落としたが、詳細な情報は得られなかった。瓦版は庶民の娯楽のひとつに過ぎない。手薄になった北の守りを破って異民族がすぐにも攻めて来るだの、戦に備えよだの、それらしいことを書いているが、楊枝を丸太のように誇張して書いたに過ぎず、正しいことと言えば、最初の「嗎吧姈まはれい族が螞弖仆ばていふ族に負けた」ことくらいだ。


「……やはり、ミリを探しに行きます。行かなくては」


 テルは立ち上がろうとして、失敗した。三日も寝ていたのだ。体力が落ちている。腹も減っている。


「まずは食え」


 カン老師が、炉にかけてあった鍋から、粥を椀によそう。煮えた米の香りが鼻孔をくすぐった。テルは渡された椀の中身をあっという間に平らげ、おかわりまでした。


「人の世話なんぞ久しぶりじゃの」


 老師が感慨深げにつぶやくのを聞きながら、テルは粥を胃に流し込んだ。

 そのとき、ドンドンと門を叩く音とともに「カン殿」と呼ばわる声がした。


「どうせ役人じゃ」


 老師はため息をついて立ちあがった。


「いいな、静かにしておれ」


 そう言って部屋のふすまを閉め、外に出て行く。

 外の様子に耳をそばだてていると、不意に頬が生温かくなるのを感じた。手をやり、ぬるりとした感触にぎくりとする。テルは部屋の中を見渡し、鏡台を見つけた。カン老師の今は亡き奥方のものだ。テルは鏡をのぞき込み、己の両眼から流れ出す真っ赤な血をみとめた。

 予想した通り、次の瞬間には痛みが襲ってきた。テルは両目を押さえてうずくまり、必死に声を抑える。


 気がつけば、テルは広大な平原のただなかにいた。乾いた風が大地を吹き渡り、天高くで鷹が弧を描くように飛んでいる。遠くの方では野生馬の群れが草を食み、そのさらに向こうには青くかすむ雄大な峰々がそびえていた。

 テルは呆然と立ち上がり、「ここは?」とつぶやいた。その問いに答えるように景色が変わり、目の前に長い壁のようなものが現れる。否、紛れもなくそれは壁であった。灰色の石造りが、大地の端から端まで続いているように見え、巨大な蛇の横たわるがごとく長大かつ重厚だ。テルはその壁の途中に、ひときわ大きな建造物をみとめる。


 建物の上部に掲げられた扁額。そこに書かれている文字はイルファン大公国のものであった。

 これこそ、世に大北壁と呼ばれるものである。

 立ち尽くすテルの背後から、数騎の集団が通り過ぎる。その中にススキ穂色の輝きを二つ見つけ、テルは思わず「あ」と口を開けた。

 ひとつは、縄を打たれ鞍にくくりつけられているゾラ。もうひとつは、戸惑ったような顔をして騎馬武者の後ろに乗せられているミリだった。

 彼らは壁に設けられた門をくぐる。テルは思わず駆け出そうとしたが、まるで根でも生えたように動かなかった。


 ミリ!


 叫んだが、声は音にならなかった。

 まるで幕を閉じるように、景色が暗転していく。テルは腕を伸ばし、なんとか景色を引き留めようとするが、無駄なあがきのようだった。

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