第22話 襲撃者と影②
テルは浅く斬られた首元をおさえながら、しばらくの間呼吸するだけの愚物と化した。次いでその時間が過ぎ去ると、ツキヒナの消えた窓と、目の前の影とを交互に見比べる。一体何が起こっているのだ? なぜツキヒナは突然現れ、影はテルを救ったのだ?
影は剣を鞘に戻すと、右腕を動かし、静かにテルの腹を指さした。テルは自分が重傷を負っていたことを思い出した。思い出してしまうと、縫われたばかりの傷が痛みを訴え始める。テルは痛みと熱とで意識が一瞬混濁し、畳の上に倒れ込んだ。
『動かないほうがいい。傷が開く』
影がおもむろに口を開いたので、テルは瞠目した。以前とずいぶん様子が違うではないか? あの不気味で不吉な気配はなく、今はむしろ只人のそれに近い。
『私が出てこられたのは幸運だった』
影はその顔にかすかな微笑みを浮かべながら、テルを見つめた。テルは、これは熱がもたらす幻覚なのではないかと思った。ならば、ツキヒナが現れたのもすべて幻覚だったのか? ――いや、そうではない。
「いったい何者だ」
テルはかすれた声で問うた。幽霊か、幻か。あるいはあやかしか。
影はその身を揺らめかせながら答える。
『私を言葉で形容するのは難しい』
『私を幽霊と言う。間違っているが、あるいは正しい。その中でも悪霊の類いだがね』
『私を幻と言う。これもまた誤りだが正しい。なぜなら、私を見ることができるのはごく限られた人間だけだから』
『私をあやかしと言う。正しくはないが間違いでもない。私はある特定の知識の中で、人に認知されている』
『私を、一番
「セゥル・タハン・マゥタリヤ……」
テルはその名をつぶやいた。なじみのない発音、なじみのない音節。しかし、その響きからして、北方の名であることは確かだった。
「分からない」
テルは言った。
「銀の谷に現れたあれも、あなたなんだろう?」
『あれは私であって私ではない』
セゥルは言った。
『君が身に宿した呪いそのものだ。あれは私の魂を喰い、一体化している』
呪いと聞いて、テルの心臓がどきりと跳ねた。長年の間、たったひとりで――ミリを除けばだが――向き合ってきた呪いについて、誰かに言及されたのは初めてだ。だが、余計に分からなくなった。セゥルと呪いにどんな関係があるというのだ?
『君は何も知らないようだね』
テルの隣に腰を下ろしたセゥルは、しばし考え込むように沈黙した。テルはその間、今にも飛びそうな意識をなんとかつなぎとめんとしていた。身体は燃えるように熱く、傷はじくじくと痛み、頭はわずかな物音にも頭痛を訴える。良い気分とはほど遠かった。
『この呪いは、先祖代々受け継がれるものなのだよ』
セゥルの言葉はにわかに信じがたいものだった。
「まさか、そんなはずはない」
テルは反駁した。
『いいや』
セゥルは断言する。
『君の母、ヨルナギもまた、呪われていたのだ』
テルの脳裏に母の姿が蘇る。窓際に腰掛けて三人の子らを呼び、それぞれが果たすべき役割について懇々と諭す、生真面目な母。三人がまっとうな大人になるよう、道徳や倫理について説くことが、彼女の使命だと言わんばかりに。間違ったことをすれば頬を叩かれることもあったが、その力はとても優しく、羽が触れるかのようだった。
『そうだとも、ヨルナギは君のように性別を失ってもいないし、呪いによる怪力など持ち合わせていなかった。彼女は私の存在さえも知らず、これまで呪いを受け継いできた先祖の多くがそうだった』
「では……なぜ、私は――」
『君の剣がヨルナギを刺し殺したからだ』
淡々とセゥルは告げた。
『そもそもこの呪いは、親から子へと受け継がれるのだ。親が寿命を迎えたとき、呪いは子に移る。だが、君の場合は、ヨルナギの命が君の剣に奪われることで、呪いが遷移した。呪いは血や争いの気配を好む。よって、君に宿った呪いは少しばかり強くなっているのだよ。私のときのように』
セゥルはそう言った。テルはセゥルを見つめ、驚きとともに「あなたは私の先祖なのか」と問うた。
『いかにも』
セゥルがうなずく。
「先祖が平原の民だったとは初耳だ」
『もう四百年ほど前になる。ヨルナギの生家であるアカサギ家の者が、私の子を迎え入れたのだ。匿ったというほうが正しい』
「匿った?」
テルは眉を寄せてろくに働かない頭で考えた。
「……四百年前といえば……〝暗黒年間〟か」
『この国ではそう呼ばれているらしいな』
セゥルは苦笑し、自らの両手に目を落とした。
〝暗黒年間〟とは、朱瑠の正史から葬り去られた数年間の記述のことだ。その歴史の詳細は不明。口伝されている伝説によれば、北方の異民族によって都が占領され、王は殺され――当時はまだ王国だった――この国は数年をその統治下で過ごしたということである。
『都を落としたのはこの私なのだ』
セゥルは告白した。
『だが、王家の残党によって包囲され、私は自害した。介錯をしたのが私の子だ。呪いは我が子に移り、その後アカサギ家の娘と婚姻したことによって、ヨルナギの代にまで呪いが継承されていった』
セゥルは、『呪いについて、私が君に教えられることが多くあるようだ』と言った。
『だが、一度にすべてを話すべきではないな。なによりも君は回復しなければ』
セゥルの声が、だんだんと小さくなっていき、同時にその姿も霞のごとく薄くなる。やがてセゥルは、煙のような形状になると、すうっとテルの身体の中へと消えていった。
ずん、と身体が重くなったように感じる。テルはため息をつき、しばらく静かに横たわっていた。
呪いのこと、ミリのこと、ツキヒナのこと。一度にあらゆることが起こりすぎた。テルは不意にすべてを投げ出したくなって、代わりに両手足を投げ出した。畳の上で大の字になり、ぼんやりと天井を眺める。
だがそうぼんやりともしていられなかった。ミリが本当に誘拐されたのだとしたら、今頃どんな目に遭っているか分からない。テルは目覚めてから今に至るまで、ある種の緊張感を抱いていた。それはテルに気を休めることを許さず、いっぱいまで引き絞られた弓のようにいつ弾けるとも分からない。
「ミリを探す」
テルはまず己が為すべきことをつぶやいた。
「すべてはそれからだ」
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