第21話 襲撃者と影①

 テルが目を覚ましたとき、目の前にはなじみのない天井があった。カン老師のあの長屋ではない。高級な材木を用いた立派な天井だ。

 自分がどこにいるのかを思い出すのにしばらくかかり、テルはようやく、下町の外れにある宿屋にいることを、記憶の中から引っ張り出した。


「ミリ?」


 呼びかけてみるが、返事はない。彼ひとりだった。

 テルは慎重に身を起こそうとして、失敗した。身体がずっしりと重く、そして熱い。熱を出しているのだ。


「ミリはどこに?」


 テルは誰にともなくつぶやいた。外はまだミリが出られる状況ではないはずだ。


「失礼いたします」


 女将の声がして、ふすまが開く。


「お召し物をお持ちしました」


 女将はそう言って、真新しい着物を卓の上に置く。テルの、この宿の泊まり客にしてはみすぼらしい着物――しかも斬られている――を見かねて、用意してくれたものらしい。たしかに、今の格好のまま外に出たら、周囲はこの宿の品格も落ちたものと思うに違いない。テルは少々決まり悪く思いながら、やっと身体を起こし、尋ねた。


「私と一緒にいた女の子を見ていませんか」


 すると女将は「ゆうべ、お発ちになりました」と答える。


「発った?」


 テルは瞠目した。


「ええ。お連れ様と一緒に」


 どういうことだ? 

 ミリはゾラとともに故郷に帰ることにしたのだろうか。しかし、ならばなぜ、テルに黙って出て行く必要がある? しかも夜遅くに出発した理由は?

 テルの心をもやもやとした不安感が覆う。


「そのとき、なにか妙な様子はありませんでしたか」


 テルは女将に問う。すると女将は少しの間考えるような顔つきになり、「少々気になったことが」と言った。

 なんでも、二人が宿を出て行くとき、ミリのほうは深く眠り込んでいる様子で、ゾラが抱えるようにして外に出たとのことだった。しかも相当慌ただしい出発だったようだ。

 テルはしばし沈黙した。どうやら良くない事態だ。ミリは、彼女の意思に関係なく連れ出された可能性がある。


「分かりました。ありがとう」


 女将が部屋を出て行ってから、テルは思考を巡らせた。発熱した頭ではうまく考えがまとまらなかったが、少なくとも、あのゾラという男を信用しすぎていたようだという結論に至った。

 なにか大変なことになる気がする。テルは直感した。

 そのとき、すーっとふすまが開く。女将が戻ってきたのかとテルは振り返ったが、そこに立っていたのは一人の男だった。


 泊まり客が部屋を間違えたのかと、はじめテルは思った。「部屋が違いますよ」そう言おうとした。だが、男の手に匕首あいくちがあるのを見て取り、ぞっと背筋が泡立つ。

 テルは反射的に飛び退いた。が、急に動いたのでめまいがし、足をもつれさせて倒れてしまう。

 男は中背で、不健康な痩せ方をしている。姿勢はやや前屈しており、猿を思わせた。顔色は青白く、何の感情も浮かんでいない。しかしテルには男の発している殺気をはっきりと感じることができた。人買いの仲間か? いや、男のまとう冷え冷えとした気配は、人買いたちのそれとは全く違う。


 テルは目の前でぎらりと光を発する匕首あいくちを凝視した。男の粗末な衣服とは裏腹に、その刃物には素晴らしい装飾が施されている。とくに、柄の部分にはめ込まれた瑪瑙――人の目玉を思わせる特徴的な模様の――

 その宝石を視界に入れたとき、テルは驚きのあまり息をするのさえ忘れた。記憶の底に封じていたものが、音をたてて一気に吹き出してくる。瑪瑙の柄――まさか!


「……ツキヒナなのか?」


 テルは掠れた声で男に問うた。

 男は無言でテルをにらみ据えていたが、やにわに動き出すと、匕首あいくちをまっすぐにテルに向かって振り下ろした。


「ツキヒナ! 弟よ!」


 テルは叫んだ。だが男はその声に反応することなく、次から次へと刃を繰り出してくる。テルはそれらの斬撃を紙一重でかわし続けた。

 テルは、生き別れたきょうだいとの再会がこのようなものになるとは、思いもよらなかった。再会できるとさえ考えたことがなかった。よって、テルを襲った衝撃はおよそ数倍にもなっていた。

 テルの脳裏によみがえる忌まわしい光景。己が手に握られた剣からは血がしたたり落ち、そのすぐ近くでツキヒナが斬られた腹を押さえて叫んでいる。


『助けて! 誰か!』


 その恐怖に染まりきった目が自分に向けられている理由を、当時のテルは理解できなかった。なぜ自分は剣を握っている? 泣き叫んでいるツキヒナの傷は? 一体誰が――自分が?

 壁際に追い詰められ、とうとう逃げ場がなくなった。テルは熱で朦朧としながら、せめてツキヒナと一言なりでも言葉が交わせればと願った。しかし彼は始終無言で、テルと話す気などないようだ。


「ツキヒナ」


 テルはつぶやいた。


「私が悪かったんだ。母を殺し、お前を傷つけた。お前が私を恨むのは当然だ。あのあと、お前はどこでどう過ごしていたんだ――?」


 匕首あいくちの刃が白い流星となって、テルの胸へと刺しこまれようとした次の瞬間、テルは身体が――もとより熱くなっていた身体が――さらに沸騰したように熱くなるのを感じた。全身を巡る血が湧き上がり、身体を縛る重い枷が外されたかのように軽くなる。

 テルの眼前で、その身体から滑り出た黒い影が、ツキヒナへと飛びかかる。それは最初不定形のようでいて、徐々に人型を為していった。影はツキヒナの腕を掴んでひねりあげると、足を払って転がした。その一連の動作は不思議と洗練されており、いずこかの古武術のようにも見えた。


 ツキヒナはそれでも匕首あいくちから手を離すことはなかった。ひねられたほうの手から匕首あいくちを持ち替えると、ざっと横に薙いで影を斬る。影はたしかに斬られた仕草をみせたが、痛みを感じることがないのか、平然としている。

 影はこちらに背をむけていたため、テルにはその顔を見ることができなかった。しかし見るまでもなく分かっていた。この影は、かつて銀の谷で出会ったものと同一だと。羽根飾りの兜に異邦の衣、腰に剣を帯びた姿。それがテルの身体から現れた。一体なぜ?

 ツキヒナが影を突き飛ばして立ち上がる。

 影は剣の柄に手をかけた。そして、影本体と同じく真っ黒な刀身がすらりと現れたとき、テルははっとした。


「やめろ!」


 テルは叫んで、影の肩に手をかけた。が、反射的にその手を離してしまった。影は、まるで窯の中で燃える炭のように熱を帯びていたのだ。

 テルはやけどを負った手にかまわず、影とツキヒナの間に割って入った。すると影の正面に回り込むかたちになり、その者の顔を正面から見つめることになった。

 以前はもやで覆われていたその部分には、影色をしてはいたがはっきりとした顔が浮かんでいた。

 くっきりとした眉に、穏やかな色を浮かべる切れ長の瞳。固く引き結ばれた唇は薄く、表情は柔らかな雰囲気を醸すようでいてどこかぴんと張り詰めている。そしてなにより、男とも女ともつかぬ顔立ち。


 テルは、あまりにも自身と似通った顔を目の当たりにして、言葉を失った。そこへ、匕首あいくちがテルの喉元めがけて突き出される。どくどくと脈打つ、太い血管の走る急所を断ち切らんとしたそれは、皮膚の表面に軽く触れたところで影によって弾かれた。

 テルは呆然としたまま突っ立っていた。一方ツキヒナは、この影が存在している以上はテルの命を刈り取ることは不可能だと察したらしい。猿のごとき敏捷さで窓際へ走ると、外へ身を躍らせ、消えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る