第20話 平原へ③

 シューッと音をたてて、白い煙が勢いよく噴出する。

 煙幕だ!

 ユウジュンは真っ向から煙を顔に浴び、激しくむせた。


「なんだこれは!」

「見えないぞ!」


 動揺した叫び声が響く。朱瑠アケル人はこのような小道具に慣れていない。ユウジュンは傭兵業を生業とするイルファン大公国の公子であるからこそ、こういった戦場で使用される道具にも精通しているが――

 ユウジュンは煙のにおいをかぎ、すぐに鼻を覆った。どうやら薬の類いも混ぜられている。毒かもしれない。


「煙を吸うな!」


 ユウジュンはやっとのことで叫んだ。

 混乱の中、機転を利かせた誰かが窓を開けたらしい。煙は外に流れ出し、徐々に薄くなっていく。


「皆様、ご無事ですか」


 窓際でげほげほと咳き込みながら言ったのは、皇太子の秘書官だった。彼が窓を開けたようだ。

 ゾラの姿は消えていた。


「奴はどこに行ったのだ?」


 アキツキが憤慨したように言う。


「逃亡したのでしょう」


 ユウジュンは針を首から抜いて立ち上がる。


「ユウジュン殿、一体どういうことか皆に分かるよう説明してもらえますかな」


 ミズワケが煙の残滓を手で払いながら言った。ユウジュンはうなずく。


「あのゾラという男は、間諜だったのです。」


 それを聞いて一同は愕然とした。奴が間諜だと!?


「これを見てください」


 ユウジュンは首飾りを一度蛇の形状に戻し、みなに見えるよう頭上に掲げる。


嗎吧姈まはれい族の象徴である、蛇をかたどった装飾です」


 とぐろを巻いた蛇が虚空を睨む。次にユウジュンは蛇の身体に仕込まれた関節を回転させ、狼の形にしてみせた。


「狼は、平原の言葉でバディブと言います。バディブリヤ氏族……あなた方が螞弖仆ばていふと呼んでいる氏族のことです」

「つまり……」


 タケルヒコが額をおさえながら口を開いた。


「あの男は、今まで素知らぬ顔で同盟会議に参加し、情報を螞弖仆ばていふ側にも流していたと……?」

「おそらくは、いえ、間違いなく、そうでしょう」


 ユウジュンは言った。


「この首飾りは、螞弖仆ばていふ族の首領から贈られたものだと思われます。だから、これを見られて動揺し、潮時だと悟って逃亡した」

「すぐに捕縛せねば!」


 顔を紅潮させたアキツキが叫んだ。


「我々を欺いたことは断じて許せん! 嗎吧姈まはれいの戦士どもの保護とやらも、もはや必要ない!」

「そうもいかないでしょう」


 困惑したように言うのはミズワケだ。


「陛下は真名にかけて誓ってしまったのですから」


 真名をかけるということ。それは決して破れぬ約束をしたということだ。もし反故にすれば、真名が汚され、魂が傷つくことを意味する。それは決してあってはならないことだ。

 全員が帝のほうに視線を向けた。帝はうろたえた様子を見せてはいなかったが、たばかられたことに衝撃を受けたことは明らかだった。


「もしあの男が、そこまで見越して陛下に誓わせたのだとしたら……」


 なんと抜け目のない男であろうか。


「なんにせよ、アキツキ兄上の言う通り、奴を捕縛しなくては。まだそう遠くには行っていないはずです……」


 ミズワケは言いながら、よろめいて壁に手をついた。

 気がつけば、その場にいる者はみな、体勢を崩し、ある者は倒れ、ある者は座り込んでいた。ユウジュンも例外ではなかった。


「さきほどの煙幕に、やはり薬が仕込まれていたか」


 ユウジュンは床に座りながら、落ち着いて懐から巾着を出した。逆さにして振ると、中から丸薬が数粒転がり出てくる。ユウジュンはそれを口に放り込んで飲み下した。それを見て取ったミズワケがほうと賞賛の声を上げる。


「さすが、イルファン大公国のお方は、普段から心がけていらっしゃる。いつもそのような薬を持ち歩いているので?」

「戦場では何が起こるか分かりませんので」


 ユウジュンは身体の麻痺が弱まるのを待ちながら、残っている丸薬を数えた。この場の全員に配れるだけの数はない。せいぜいあと一人といったところだ。

 誰に薬を渡すか?

 ユウジュンの目は、這うようにして皇太子に近づく秘書官に留まった。


「秘書官殿」


 ユウジュンは丸薬を秘書官に差し出した。


「これを飲んでください」


 秘書官は恐縮したように目を見開き、首を振った。


「皆様を差し置いて、私がいただくわけにはまいりません」


 だが、ユウジュンは「他の誰よりも、あなたが動けるようにならなくては」と再度薬を差しだした。


「煙に含まれていた薬は、弱毒性とはいえ、念のため医師に診てもらう必要があります。あなたには医官を呼んできてもらいたい」


 丸薬は一時しのぎに過ぎない。本来であれば薬を優先的に渡すべきなのは帝なのであろうが、このところ体調が万全とは言えない帝に下手に服薬させるとあとが怖い。さらには、薬は若い身体ほどよく効く。このなかで若者といえば、皇太子かその秘書官だ。煙幕を浴びた者たちの処置を手配するならば、この秘書官が一番の適任であろう。


「……では、ありがたく頂戴します」


 秘書官が丸薬を押し頂き、飲み込むのを確認してから、ユウジュンは周囲を見渡した。みな具合が悪そうにしているが、命に関わるような毒でなかったことが幸運だった。煙幕を巻いたゾラ本人も、逃げる際に多少なりとも煙を浴びることになるから、毒性の強いものは使わなかったのであろう。


「それから、湯浴みの手配もしてください」

「湯浴み……ですか?」

「毒は呼吸によって肺から取り込まれるだけでなく、皮膚や目の粘膜から体内に入ります。洗い流さなくてはなりません」

「承知いたしました」


 やがて動けるようになった秘書官が立ち上がり、皇太子とユウジュンに一礼して駆け去って行く。それを見送ってから、ユウジュンは皇太子に向き直る。


「我々は毒の煙幕に対処せざるを得ず、みすみす時間稼ぎをされてしまった。奴を捕縛するのは容易ではありません」

「帝都から平原に逃れるとしても、距離がある。そうやすやすと逃げおおせるとは思えないが……」


 ユウジュンは「平原の民を甘く見てはいけません」と首を振った。

 彼らの馬は、平原を端から端まで走破するのにひと月もかからない。国境などたやすく越えるだろう。それにゾラは一介の戦士とは少し事情が違う。恐らく彼が平原に至るに必要なのは二日、あるいは一日半といったところか。

 それを聞いた皇太子は膝の上で拳を握った。


「ユウジュン殿、知恵を貸してほしい。どうすれば奴を捕らえられる」


 ユウジュンは顎に手をあて、考えた。朱瑠アケルの兵は攻めよりも守りに適した拠点防衛型で、遠征には向かない。今から兵を差し向けてゾラを追わせても、追いつくことさえできないか、仮に追いついたとしても間もなく振り切られてしまうだろう。


「私に行かせてください」


 ユウジュンは皇太子に言った。


「奴はまっすぐ北へ向かうはず。私なら奴が通るであろう道にもおおよその見当がつきます」

「ならば、手勢をお貸ししよう」


 ゾラの追跡に、武官を貸してくれようというのだ。だが、ユウジュンは丁重に断った。せっかくの申し出であっても、恐らくユウジュンは彼らを置いていく羽目になるだろう。ユウジュンの愛馬であるハジュは平原生まれであり、厳しい訓練に耐え抜いた軍馬だ。朱瑠アケルの騎馬も悪いものではないが、機動力はハジュのそれにかなわない。


「だが、一人では……」


 言いかけた皇太子に、ユウジュンは微笑む。


「ご安心を。大北壁の砦にいる私の兄に、応援を要請します。配下の傭兵を差し向けてくれることでしょう。必ず、奴に追いついてみせます」


*   *   *


 その言葉通り、ユウジュンはゾラを視界にとらえた。彼は誉れ高い武人の国の公子であり、騎馬の実力は平原の戦士のそれに勝るとも劣らない。また平原の民についての知識もさることながら、もとより彼は優れた直感を兼ね備えていた。よって、彼はゾラの通った道筋を、ほとんどたがうことなく辿ってきたのである。

 ユウジュンは前を走るゾラと十馬身ほどの距離にまで近づいた。そこで彼ははじめて、ひとりの少女の存在に気がついた。


 誰だ? 彼はあのような少女など連れていなかったはず。仲間か、人質か。


 ユウジュンは矢を手にしたが、標的を射てよいものか逡巡した。


 あの少女は一体誰だ? ここから矢を射かけたら、彼女に当たるかも知れない。もし哀れな人質だったら……?


 振り返ったゾラが、公子の手にある弓矢を見てとり、少女の頭を低く下げさせる。それを見てユウジュンは、少なくともあの少女はあの男と無関係の者ではない、と確信した。ならば、なにを躊躇うことがあろうか。

 ユウジュンはきりきりと弓を引き絞った。揺れる馬上で狙いを定めることは難しいが、公子の身体軸はしっかりと標的をとらえていた。

 ヒュウ、と風を切り裂いて矢が飛んでいく。だが当たる寸前、まるで予知でもしていたかのように避けられた。矢は虚空へ消える。

 ユウジュンはふうと息をついた。背中に目があるのかとうろたえてはいけない。相手は平原を跋扈する遊牧の民。そう簡単に捕まるものではない。


 だが、彼らが平原の主たる民ならば、こちらは戦場の民。戦いにおいて遅れをとらば、名が廃るというものだ。

 ユウジュンは弓を長弓に持ち替え、矢を殺傷力のない鏑矢かぶらやにかえた。狙いを定めるは、騎上の男ではなく、馬そのもの。

 放たれた鏑矢かぶらやは、ビイィィィ――と大音量で長鳴りする。

 途端に馬は跳ね上がり、騎乗者を振り落とした。ゾラが少女を庇うのが見えたが、二人の身体はぽんと宙に放り出される。

 殺す必要はない。捕らえられれば十分なのだ。であれば。

 鏑矢かぶらやは、馬の鼓膜を破ったのであった。

 これでもうあの馬は動けない。馬にはなんの罪もないが、鼓膜はいずれ再生する。

 公子と、背後から追いついてきた傭兵たちが、地面に転がった二名を取り囲む。


 一人は間諜。一人は正体の知れぬ少女。


「砦に連行しろ」


 ユウジュンは背後の傭兵たちに命じた。

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