第51話 一の君の乱心①
三の君は〝白痴〟であると噂されていた。
「まあ、ご覧なさいまし、三の君殿下があんなところに」
「いったい何を見つめていらっしゃるのでしょうねぇ」
ひそひそと女官たちがささやき合う。彼女らの目は、宮の壁をぼうっと眺めて立っているハルギクに向けられていた。
もう五歳になるハルギクは、未だ満足に言葉を発することができなかった。喜怒哀楽を表現するための表情もまた、乏しかった。ゆえに、彼を理解することのできる大人は周りにおらず、彼もまた、周囲がなぜ彼に対して距離を置くのか、理解することができなかった。
壁に向かって立っているようにしかみえないハルギクだったが、実際ただ壁を見て立っているだけだった。彼にとって、のっぺりとした漆喰の様子が、なんとなく面白いもののように思われたのだ。それは常人にはあまり共感されない感覚だった。この特性がまた彼の孤独を深める要因にもなっていた。
「ハルギク、ここにいたのかい」
「探したよ」
そこへやってきたのは一の君テルナミと、二の君ツキヒナである。この双子はハルギクのきょうだいで、歳は五つほど離れていた。彼らは母を除けば唯一と言ってもいい、ハルギクの味方である。
二人はぼんやりと壁を見ているハルギクの前に回り込むと、にっこりと笑った。
「お前に良い物をやろうと思ってね」
テルナミが袖の中から何かを取り出す。鞠であった。色とりどりの糸で刺繍が施されている。
「お前はいつも静かにしているから、たまには思い切り遊ぶのもいいんじゃないかと思って、私とツキヒナで作ってみたんだ」
差し出されるまま鞠を受け取ったハルギクは、しげしげとそれを眺めた後、ぽーん、と上に向かって投げ上げた。鞠は弧を描いて落ち、ハルギクはそれを掴み損ねる。代わりにツキヒナが受け止めた。
「そら、もう一度やってみよう」
三人はかわるがわる鞠を投げたり受け止めたりして、しばらく遊んだ。傍目には、一の君と二の君が、愚鈍な三の君に付き合ってやっているようにしか見えなかったが、日頃から学問や稽古に明け暮れている双子にとって、年下のきょうだいの遊び相手を務めることは、ほどよい息抜きになっているのだった。
ハルギクも、表情にこそ表れなかったが、二人のきょうだいが自分を気に掛けてくれることをうれしく感じていた。鞠遊びは初めてで、うまくできないが楽しい。
一の君も二の君も、もうすぐ十一歳になる。そうなれば、天界から人界に降りたと見なされ、正式な皇族の一員となる。同時に、性別も公表されるならわしであった。男子であるか女子であるかは、当人と両親、入浴の介助をする限られた者しか知らず、双子のきょうだいであっても、片割れがいったいどちらなのか、テルナミとツキヒナは知らなかった。天界に属するとされる十歳までは、神と同じく無性別として扱うことを徹底するのが宮中のしきたりなのである。
ハルギクは、きょうだいがやがて男や女になる、ということをよく理解できていなかった。性別が分かったところで、何が変わるのだろう。テルナミもツキヒナも、ハルギクに優しい、それでいいではないか。
「失礼いたします、一の君殿下。お時間です」
下官がテルナミを呼びに来た。テルナミは鞠をハルギクの手の中に置いてやりながらうなずいた。
「ああ、すぐに行く。博士を待たせてはいけないからね」
それを聞いたツキヒナの表情が一瞬翳る。
諸国を遊説する高名な博士を、帝が招いたのはひと月前。博士は帝の子どもたちが学ぶ様子を一通り見学し、テルナミが古典の解釈について述べた文章にいたく感銘を受けた。博士はわざわざ
テルナミが行ってしまってから、ツキヒナはハルギクに向かって独り言のようにつぶやいた。
「どうして――あいつばかり」
はあ、とツキヒナはため息をついた。
「あいつが
ハルギクが何の反応も返さずにいると、ツキヒナは「ま、お前に言っても仕方ないか」と首を振る。
ハルギクがツキヒナの袖を引く。
「ん? なんだい」
「……おめ、め。みせて」
おぼつかない言葉で、ハルギクが言う。
「ああ、これが見たいのか」
うなずいたツキヒナが懐から、きらびやかな装飾の施された
きらきらと宝石がふんだんにあしらわれた
この
ぺたぺたと瑪瑙に触るハルギク。ツキヒナはぐっと唇を噛み、「もういいだろ」と
「やあ、ツキヒナにハルギク」
ゆったりとした足取りで現れたのは、帝弟ミズワケだった。
「叔父上」
ツキヒナは顔をほころばせた。いつも穏やかで優しいこの叔父は、ツキヒナにとって心を許せる存在だった。というのも、彼はツキヒナのことを、テルナミよりも贔屓にしてくれる唯一の人間だったからだ。ツキヒナが心の内に抱えた劣等感に共感してくれ、「己を蔑むものではないよ」と励ましてくれたのは、ミズワケだけだった。
「ちょうど良かった。実は珍しい茶を手に入れてね。一杯付き合ってくれるか?」
ミズワケが言うので、ツキヒナは「喜んで」とうなずいた。
「ハルギクもおいで。砂糖菓子をあげよう。おや、良い鞠を持っているね」
鞠を褒められ、ハルギクは無表情のままうなずいた。これが彼にとって賛意を示す最大限の仕草である。
二人はミズワケの住む宮の一室にやってきた。ミズワケは棚から茶器を取り出し、手ずから茶を沸かす。沸くのを待っている間、ハルギクには砂糖玉が与えられた。薄桃色のそれを舐めながら、ハルギクは床に座り、鞠を転がして遊ぶ。
卓についたツキヒナは、叔父が優雅な手つきで茶を淹れるのを眺めていた。
「さあ、飲むといい」
立派な器に入れられた茶は、すんと爽やかな香りでありながら、甘くてこくのある味わいだった。ツキヒナは一口飲んで、目を丸くする。
「これはこの国の茶ではありませんね。渋みが全くない」
「流石は二の君だ。この味が分かるとは。そうなのだよ、この茶はカミル州国で飲まれている、ミハ茶というものだ」
ミズワケはうれしそうに微笑んだ。
「ミハ茶は、別名を君主の茶と言ってね、カミル州国王の即位式などで、祝いで飲まれるものなのだそうだ」
「そんなに貴重な茶を――私が飲んで良かったのでしょうか」
「構うまいさ。そなたは特別なのだから」
その言葉に、ツキヒナは動きを止めた。
「私が……特別?」
「そうとも」
ツキヒナはうつむいた。自分が特別だなどと思ったことは、一度もない。むしろその言葉は、双子の片割れであるテルナミに当てはまるだろうと思われた。
「たしかに、一の君は、何においても優れているかもしれない」
ミズワケが茶器の縁を指でなぞりながら言う。
「だが、為政者にとって大事なのは、民を思いやる心。人の痛みを知ることだ」
「人の痛み……」
「そなたは痛みを知る者だ。なぜなら、これまで沢山傷ついてきたのだから。一の君の存在が、そなたの心を損なわせてきたのだ」
心臓がどくんと鳴った。ツキヒナは気持ちを落ち着かせるために、ミハ茶を一口飲む。
「でも……でも、テルナミは私を意図的に傷つけているわけじゃない」
「そして、そのことに気づかないでいる。これは十分罪深いことなのだよ」
ミズワケの言葉は、水のようにツキヒナの心にしみた。誰の目にも輝かしくうつる一の君の、欠点……。
「そなたは、痛みに耐えながら、それでも一の君を責めることをしない。心が清い証だ。私は、そんなそなたこそ、皇太子にふさわしいと思っているのだが」
「叔父上……」
ツキヒナはミズワケを見つめ、力なく首を振った。
「だめです。父上も母上も、私よりテルナミに期待しています。アカサギ家もです」
「たしかにこのままでは、テルナミが皇太子になるであろうな」
ツキヒナは目を見開く。
「では、あいつは……テルナミは……」
「男だよ」
ツキヒナの目の前は真っ暗になった。もはや茶の味など一切感じられず、喉が締まって息ができなくなった。
「しっかりしなさい」
ミズワケが背中をさすってくれる。ツキヒナはげほげほと咳き込んだ。
テルナミが男なら、もはや皇太子になることは約束されたも同然だ。そして自分は、その影の中で生きていくしかないのだ。
「一の君は、その存在が大きすぎるがゆえに、人の痛みや心の傷が理解できない。そして、それをよしとする帝や、ヨルナギ妃もまた、罪深いと思わないかね。帝はこの国の絶対的権力者、そしてそなたらの母であるヨルナギ妃は、有力貴族アカサギ一族の出身だ。どちらもテルナミ同様、選ばれた存在――ゆえに、そうではない者の苦しみなど、塵芥同然のようにしか思えないのだよ」
ツキヒナははあはあと息を荒くした。ミズワケはさらにたたみかける。
「ヨルナギ妃の愛情は、テルナミにばかり注がれている。私は、そなたが気の毒でならないよ」
ツキヒナは顔をゆがめ、卓に伏した。ハルギクはそんなきょうだいの様子を、不思議そうに見上げる。
「ツキヒナ、皇太子になるべきはそなただ」
「ですが叔父上、私に何ができると?」
「じつは、ひとつ方法がある」
その言葉に、ツキヒナは顔を上げた。
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