第52話 一の君の乱心②

「いったいどんな方法なのです?」

「真名を交換するのだ」


 ツキヒナは瞠目した。


〝真名〟とは、皇族に与えられた真の名である。真字まなじによって記されるが、例外的に音を持たない。ゆえに発音ができない。また皇族の真名は、そのためだけに文字を作り、秘匿されるのがならわしであった。「テルナミ」や「ツキヒナ」といった名は、便宜的に呼称するためのものであり、真の名ではない。皇族にとって真の名は魂そのものであり、他の誰にも知られてはならない禁忌なのだ。


「テルナミはそなたを信頼している。こう言えばよい。『東の王、西の王に名付け給い、西の王は東の王に名をおくり給う。これを永友の契りとす』と」

「東の王、西の王……」

「古典の一節だ。東の王は、国を栄えさせたが、頻繁に争いが起こり悩んでいた。西の王は、国が栄えず、民が貧しいことに心を痛めていた。そこで二人は真名を交換し、互いの運命を入れ替えたのだ。結果、東の王の国は貧しくなったが、平和で穏やかになった。西の王の国は、民が豊かになり国が栄えた。二人の王は固く友情を誓い合ったという。これを永友の契りという」


 ミズワケの説明に、ツキヒナは聞き入った。東の王と西の王に関する逸話は、勿論ツキヒナは学んでいたが、これは初めて聞く話だった。だが、古典に造詣の深いテルナミなら知っているだろう。


「永友の契りは、最上級の友情の象徴だ。そなたが言えば、テルナミは喜んで応じるはずだ。そして、契りを交わせば、テルナミの持つ運命を、そなたが手にできる」


 テルナミが持つ資質や、皇太子が約束された将来も、なにもかも。

 ツキヒナの心は浮き立ったが、慎重に尋ねる。


「……運命の交換だなんて、皇太子になる未来を私に奪われると警戒するのでは?」


 すると、ミズワケは声を上げて笑った。


「あの一の君が、そんな心配をすると? テルナミは、完璧であるがゆえに、決定的な欠陥を抱えている。それは、疑うことを知らぬことだ。――きっと、そなたから永遠の友情を捧げられたことを、喜ぶに違いないよ」


 ミズワケは優雅に茶を口に運ぶ。


「そなたが今のままでも良いと思うのなら、強要はせぬよ。どんな運命でも、選ぶのはそなただ」


 ツキヒナは膝の上で拳をにぎった。

 この二の君の願いは、本当は皇太子になることではない。双子の片割れと比べられ、みじめな思いをしたくない、ただそれだけだった。

 テルナミがもてはやされるようになって数年、ツキヒナは一の君の金魚の糞にならざるを得なかった。テルナミと敵対することは、宮中での居場所を失うことを意味したからだ。勿論、仲違いをしたからと言って、テルナミがツキヒナを邪険に扱うことはないと分かっていたけれど、彼らをとりまく周囲はそうはいかない。ツキヒナが己の劣等感を押し隠しながら、一の君のおまけとして過ごした結果、テルナミの周囲には新進気鋭の優秀な官吏が集まり、ツキヒナの周りには出世街道に乗れないものの未練を捨てきれない輩が集まった。


「私は変わりたい」


 ツキヒナはつぶやいた。


「だから、テルナミの真名を手に入れてみせる」


 二の君の宣言に、ミズワケは微笑んだ。


「ならば、ひとつ助言をしよう」

「助言?」

「永友の契りを交わしたならば、交換した真名を私に教えなさい。真名の交換は、それを知る者同士による契約であるから、もし一の君が運命を取り替えられたことに気づき、そなたに再交換を迫っても、私が認めぬ限りできぬようになる」

「そうなのですか……!」

「そうだ。私はそなたの味方だよ」


 その言葉に、ツキヒナは目にうっすらと涙を浮かべながら、ミズワケの手を取った。


「ありがとうございます、叔父上……!」

「しっかりやりなさい、首尾良く」


 ミズワケはツキヒナの肩に手を置いた。


 そのとき、ころころと転がった鞠が、ツキヒナの足に当たった。ツキヒナは、ここに幼いきょうだいもいたことを思い出し、はっと顔をこわばらせる。だが、ミズワケが安心させるように言った。


「ハルギクは〝白痴〟だ。何も分からんよ」


 ツキヒナは肩の力を抜く。


「ええ――そうですね」

「私は信じているよ、そなたが皇太子になる未来を」


 ミズワケの信頼が、唯一のよりどころだった。

 ツキヒナは立ち上がり、退出の旨を告げた。

 胸の中を暗く覆っていた雲が、晴れていくような心地がする。ツキヒナは足取り軽く、宮を出た。




 翌日、ツキヒナは庭園でふたりのきょうだいを見つけた。ハルギクは花を摘んで遊び、テルナミはそばの四阿あずまやで読書をしている。テルナミは古代の詩集や逸話集、兵法書や算術書などを好んでいた。しかも、難解であればあるほど良いらしい。いま手にしている書物も、そういった類いの文献であろう。

 いままでのツキヒナであれば、テルナミの読書の邪魔をするまいと踵を返していただろう。あるいは、テルナミが貪欲に知識を吸収していく様を、目の前で見ていたくないという理由で、やはり庭園を迂回していただろう。

 だが、ツキヒナは四阿あずまやへ足を向けた。

 テルナミはしばらく、ツキヒナがそばに来たことに気がつかなかった。書物の頁を何度かめくったところで、ようやく目を上げる。


「ツキヒナ」


 テルナミはにっこりと顔をほころばせた。ツキヒナも笑みを返しながら、「それは何の本かな」と尋ねる。


「『蝶々姫』だよ」

「『蝶々姫』?」


 ツキヒナは意外に思った。『蝶々姫』は、広く知られる戯曲で、子どもでも理解できるような易しい文章で書かれている。テルナミが読むには物足りないのではないか。

 だが、頁をのぞき込んだツキヒナは、すぐに悟った。

 この『蝶々姫』は、カミル州国の言葉に訳された、翻訳本だったのだ。


「カミル州国は小さいけど、王朝の興りは朱瑠アケルより古い、聖教国家だろう? この翻訳本は百年前に記されたものだけれど、カミル州国の宗教観が反映されているから、原典とは違う面白みがあるよ」


 テルナミの説明に、ツキヒナは「へえ、そうなのか」と興味があるふりをした。

 カミル語は皇族の教養のひとつとされていたので、ツキヒナは勿論読むことができたが、百年前の書物となると話は別だ。カミル州国は、八十年ほど前に文法の改革を行っている。それによってカミル語は洗練され習得しやすい言語とされているが、逆にそれ以前の書物に使用されている文章は、非常に難解なのだ。


「私は『蝶々姫』よりも『東西の王』のほうが好きだな」


 ツキヒナが言うと、テルナミの目が輝き、「『東西の王』は本当に優れた書物だよ」と言った。


「なぜなら、歴史に文学に兵法、恋物語、すべてを網羅しているからね」

「とくに、東の王と西の王の友情が素晴らしいと思わないか?」


 ツキヒナの言葉に、テルナミは「そうだな」とうなずく。ツキヒナは、きょうだいの表情を注意深く観察しながら、次の言葉を告げた。


「どうだい、私たちは、この二人の王のようになれると思うんだが」


 すると、テルナミは「どういう意味だい」と首をかしげる。ツキヒナは身を乗り出してささやいた。


「私たちも、彼らのように永遠の友情を誓い合おうじゃないか。永友の契りを交わそう」


 それを聞いたテルナミは驚いて目を見開き、ツキヒナを見返した。


「永友の契りなんて、どこで知ったんだい。あれは教書には載っていない、原典にしか記述のないものだ」

「私だって、少しは勉強しているのだよ」


 ツキヒナは必死に表情を繕った。


「ああ、うれしいよ。ツキヒナ」


 テルナミは感激していた。


「勿論、喜んで契りを交わそうじゃないか。だが、紙に真名を書いて、他の誰かに見られでもしたら大変だ」


 ツキヒナは「大丈夫だ」と言った。


「互いの手の中に、指で書けば良い。それで分かるだろう」

「そうしよう」


 二人は向かい合い、厳かな雰囲気で、左手のひらを相手に差し出した。ツキヒナはじっとテルナミの手を凝視した。何の抵抗もなく、疑問すら抱かずに差し出された手。そして、ツキヒナの手のひらに、テルナミが己の真名を記すべく、今まさに右手の指を伸ばしている。


 テルナミ、お前ばかりが輝いていられるのも、もうおしまいだ。


 ツキヒナは、テルナミの手のひらに己の真名を記すとともに、己の手のひらに記されたテルナミの真名をしっかり記憶した。

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