第53話 一の君の乱心③

 テルナミと別れたツキヒナは、早速ミズワケのもとに向かった。


「叔父上。テルナミと契りを交わしました」


 茶器の手入れをしていたミズワケは顔を上げた。


「そうか! やったか!」


 ミズワケは表情明るくツキヒナを迎え入れる。


「さあ、最後の仕上げだ。私に真名を教えておくれ」

「はい。叔父上、手を」


 ツキヒナは、ミズワケの手に自分の真名を記した。


「次はテルナミの真名を」


 言われ、ツキヒナは同じようにテルナミの真名を――書くことができなかった。


「わっ!」


 ツキヒナの指先から火花が散り、ミズワケの手を弾いたからだ。


「――なんと」

「叔父上、いったいどういうことでしょう」


 ミズワケは沈黙した。彼はすぐに理解した。

 テルナミの真名が、ミズワケを拒否したのだ。真名は皇族の魂そのもの。つまり、テルナミ自身が、ミズワケのことを信用に足らずと認識しているということになる。


「一の君め――どこまでも目障りな――」

「叔父上?」


 戸惑うツキヒナに、ミズワケは微笑みかけた。


「だが良い。ツキヒナ、そなたの真名を手に入れたからね。愚かな子だ」

「どういうことです?」


 ミズワケは「跪け」と命じた。


「!」


 ツキヒナの身体が、意思に反して動き、叔父に対して膝をつく姿勢をとった。


「叔父上、これは――」


 怯えた様子のツキヒナに、ミズワケは暗く笑いかけて告げる。


「これが真名の力なのだよ。真の名を握れば、その者を意のままに操れる。――ああ、そうだ、そなたに聞かせた永友の契りの話だが、あれは半分は嘘だ。真名を教え合っても、運命の交換などできはしない。そなたなら、私の作り話を鵜呑みにし、わざわざ『東西の王』の原典の確認などしないだろうと思ってね。あれは単純に、互いの真名を握り合うことで信頼を担保する儀式に過ぎないのだ。テルナミはそのことを知っていただろうから、喜んでそなたに真名を渡したのだろうが」


 ツキヒナは衝撃のあまり、これは夢なのではないだろうかと疑った。まさか、この優しい叔父が、自分を騙し、陥れるなど。

 だが、非情なことにこれは現実だった。ツキヒナは「叔父上! どうか!」と嘆願した。ミズワケは笑みを消してツキヒナを見下ろす。


「一の君の真名を握ることは失敗したが――ツキヒナ、お前はテルナミの真名を握っているね。そしてそなたの真名は私が握っている」

「叔父上」

「そなたはテルナミを意のままにできる。だがそこにそなたの意思が介在する余地はない。そなたは私の命令通り、テルナミを消すのだよ」

「待ってください、どうか」


 ミズワケはツキヒナの顎をつかみ、ぐっと上向かせた。


「もはや考えることすら必要ない。私の願いを叶えればそれでよい。ツキヒナ、愚かな二の君よ――思考を禁じる」


 ツキヒナの瞳からすっと光が消えた。

 二の君は完全なる人形と化したのだ。

 ミズワケは満足げに微笑み、己が生み出した傀儡の耳に、これからやるべきことをささやいたのだった。


*  *  *


 ハルギクは、母ヨルナギの宮にいた。彼女が三人の子どもたちを集め、茶会を開くことにしたからだ。

 ヨルナギは帝の一番の寵妃であった。類い稀な美貌もさることながら、大貴族の娘らしからぬ、どこかくだけた愛嬌が、帝の心を射止めたのである。それでいて彼女は大変な生真面目さも持ち合わせていた。ついに三人の子どもを産んだが、彼らが皇族の地位に慢心することなく、まっとうな人間に育つよう、常に気を配り、教育係に任せきりにすることをしなかった。


「ハルギク、テルナミとツキヒナに、鞠をもらったのですね」


 母の言葉に、ハルギクはこくんとうなずいた。


「ちゃんとお礼を言いましたか」


 ふるふるとハルギクは首を振る。


「では、二人が来たら、きちんとお礼をなさい。お返事は?」

「あい」


 ハルギクがたどたどしく返事をしたとき、テルナミとツキヒナが連れ立ってやってきた。


「母上、ご機嫌うるわしく」

「本日はお招きありがとうございます」


 二人は優雅に会釈をする。ヨルナギは目を細め、二人に椅子に腰掛けるように言った。


「二人とも、もうじき十一の歳を迎えますね。すっかり健やかに成長したこと、母はうれしく思いますよ」


 ヨルナギは美しい顔に微笑を浮かべ、まず子どもたちが健康であることを褒める。彼女は、三人の子の特性をよく理解していた。そして、能力の差が優劣の差ではないことも分かっていた。

 だが夫、カヅチヒコはそうはいかない。帝という立場上、彼には優秀な子どもが必要だった。それがたとえ皇子であれ姫であれ、帝の治世を支え、国を守るため、何者より優れていなければならないという重荷を、我が子に課さざるをえなかった。

 その点で言えば、テルナミは文句のつけどころがなかった。ツキヒナも十分優秀だ――テルナミが突出しているゆえ、目立つことはないものの。


 ハルギクの発達が遅いことが、帝の心配ごとであった。だがヨルナギは、この末っ子がたとえ〝白痴〟であったとしても、生きていく道はあるはずだと考えている。

 ヨルナギは、子どもたちに差異があるからと、誰かひとりを優遇も冷遇もしなかった。宮中では当然のごとく、ヨルナギが一番に可愛がっているのはテルナミだとする噂もあったが――全くの憶測である。

 ハルギクが、テルナミとツキヒナの袖をぐいぐいと引いた。


「どうしたんだい、ハルギク」

「あいがとう、ござます」


 ハルギクは鞠を手に、二人のきょうだいにぺこりと礼をした。その頭を、テルナミが優しくなでてくれる。

 頭をあげたとき、ハルギクは見た。テルナミとヨルナギの目がハルギクに注がれている間に、ツキヒナが袖の中から小瓶を出し、液体を二人の茶器の中に注ぐのを。だがそれが何を意味するのかは分からなかった。


 茶会は穏やかに進行していた。

 突然、テルナミががくんと卓に突っ伏した。


「どうしたのです、テルナミ――」


 続いて、ヨルナギも意識を失う。

 ツキヒナが静かに立ち上がり、テルナミの耳元でささやいた。


「ヨルナギを殺せ」


 テルナミが起き上がる。まるで魂の抜けたような表情――ハルギクははじめて、なにかとんでもないことが起きていると悟った。

 テルナミは立ち上がり、ヨルナギの背後に立った。そして、腰に佩いた剣に手を掛け、ゆっくりと抜く。現れた刀身は不気味なほど美しく、鏡のように光を跳ね返している。


 ハルギクは、目の前であっけなく行われた凶行に、ただ目を丸くしているしかなかった。

 テルナミが母の胸を剣で刺し貫いた――その動きは、まるで舞のごとく優雅で気品にあふれており、ハルギクは己の頬に飛び散った返り血の生温かさがなければ、ことの重大さを理解できなかっただろう。


 ヨルナギの身体から、黒いもやが立ち上っていた。人型をしているようにも見えるそれは、身をくねらせながらテルナミの身体に吸い込まれていく。ハルギクは直感した。あれは良くないものだ。

 すると、もやの中から視線を感じた。ハルギクが硬直していると、もやの一部が分離し、こちらへ漂ってくる。そしてそのまま、ハルギクの身体の中へ入ってくるではないか。


 途端、ハルギクは激しい頭痛に襲われた。頭の中で、誰かが叫んでいる。悲嘆に満ち、恨みを募らせた誰かの叫び。

 不意に叫ぶ声が止む。ハルギクは床に伏し、はあはあと息を荒くした。

 ツキヒナが動いた。テルナミの前に立ち、両手を広げる。


「さあ」


 ツキヒナが言った。


「私を斬れ」


 応えるように、テルナミの剣が音もなく動いた。


「ああああ――!!」


ツキヒナは絶叫した。斬られた腹から血がほとばしる。


「……え?」


 テルナミがはっと顔を上げた。何度か瞬きしたあと、床に倒れて悶絶するツキヒナを見、伏しているハルギクを見、絶命しているヨルナギを見た。そして、己が手に握られた血まみれの剣に気づく。

 正気に戻ったテルナミが見たのは、まさに地獄絵図であった。


「な――これは――」


 そのとき、テルナミの身体が燃えるような熱を発した。まるで灼かれているような熱さ――そして、テルナミの肉体に訪れた変化。


「ぐっ――」


 身の内をかき回されるような気味の悪い感覚に、テルナミはえずいた。視界がぐるぐるとまわり、身体の中でもなにかがぐるぐると回っている。これは罰なのだろうか。母を殺し、きょうだいを傷つけた――だとしたら、なぜだと叫びたかった。どうして自分が、そんな恐ろしいことを? この身体にはいま、何が起こっている。

 しばらく続いた熱が収まったとき、テルナミはふらつきながら、己の肉体を確かめた。信じられぬことだったが、そこには男でも女でもない、じつに奇妙な身体があった。


「――助けて――誰か――」


 ツキヒナの声が響く。テルナミは双子の片割れを見下ろした。腹から流れ出る真っ赤な血。

 そのとき、荒々しく扉が開き、踏み込んできた者たちがいた。


「なんということだ」


 そこに立っていたのは、近衛士を連れたミズワケだった。彼はまっさきにツキヒナに駆け寄った。


「ああ、なんということだ! 一の君ともあろう者が、このような暴挙を――」


 ミズワケは近衛士たちに向かって、さっと手を振った。


「一の君を捕らえよ!」


 近衛士たちがテルナミを取り囲む。テルナミは剣を床に投げ捨て、瞑目した。

 これが、『一の君の乱心』事件のあらましである。

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