第50話 族長ゼヌベク⑤

 ミリは瞬きした。これは夢なのだろうか。夢ならば、ぬか喜びするまえに醒めて。

 だが、夢ではなかった。ミリは馬から飛び降り、駆け出した。


「テル! テルなのね!」


 その人影もまろぶように馬から降り、駆け寄ってきたミリを両腕で抱きとめた。


「……探したよ」


 テルは女人の姿をしていたが、ミリにとってはどうでもいいことだった。今はその体温を感じられることがたまらなくうれしかった。

 テルの後ろでは、四人の男女が騎乗したまま二人の様子を見守っていた。


「テルナミ様、その子が探していた〝ミリ〟ですか?」


 ひとりの若い女が声をかける。彼女を見たゾラはあんぐりと口を開けた。


「なんで――あんたがここに」


 ナナクサはゾラを見返す。


「別に、あなたに会いにきたわけではありませんよ。兄の使命を見届けにきた、それだけです」


 ゾラは、そばにタケルヒコもいるのを見て仰天した。まさか、皇太子が平原にやってくるとは。


「テルナミ?」


 ゼヌベクが馬を降り、早足でミリとテルに近づいた。ゾラは怪訝に想った。主が珍しく冷静さを欠いているように思えたのだ。


「待て」


 ゼヌベクの前に立ちはだかったのはユウジュンだった。


「貴様がバディブリヤ氏族の族長だな。俺はイルファン大公国が第二公子にして、第一公子ダーロゥの弟、ユウジュンだ。兄はどこだ。よもや殺してはおるまいな」


 ユウジュンの手は剣の柄にかけられていた。

 ゼヌベクはすっと第二公子に視線を移す。


「第一公子は健在だ。元気かと訊かれれば微妙なところだが、できる限り丁重に扱っているつもりだ。あとで会わせてやる」


 ゼヌベクの淡泊な声に、ゾラはあれっと思った。イルファンの勇士として名高いユウジュンに、ゼヌベクは興味を抱いていたはずだ。それなのに、このそっけない態度は。ゼヌベクの頭の中が、この第二公子よりも重要な何かに占められているとでもいうような。

 ゼヌベクがユウジュンをかわして前に出る。テルはゼヌベクを見据え、さっとミリを背後に隠した。だが、ゼヌベクが見ているのはミリではなかった。


「……俺のこと、分からないか、兄上」


 その言葉に、テルは眉を寄せた。


「なぜ私のことを兄と呼ぶ」

「姉上と呼んでも良いが」


 ゼヌベクは瞳に、これまで見せたこともないような、悲哀と懐かしさを浮かべて言う。


「――俺はハルギクだ。末の弟の」


 背後でタケルヒコ、ナナクサ、アスマが顔を見合わせる。

 雷に打たれたような衝撃のあと、テルはゼヌベクの顔をじっと凝視した。ゼヌベクは言う。


「兄上がいなくなったとき、俺は五歳だったから、顔を見ても面影などないだろうが……俺の兄はテルナミとツキヒナで間違いない」


 ゼヌベクの告白は、この場において最も異質だった。


「どうしてハルギクが……平原に?」


 やっと声を出したテルに、ゼヌベクは「話せば長い」と言った。


「だが、俺は知っている。テルナミ兄上が誰に嵌められたのかを」


 テルは目を見開く。ゼヌベクは続けた。


「兄上は、母上を殺したのは自分だと思っているだろう。だが、本当は――」


 ゼヌベクはそこで言葉を途切れさせ、周囲を見渡した。


「ゆっくり話をするには、軍営に戻らなければな。どうやらそこの皇太子も俺に用があるようだ」

「ああ! そうだ」


 話ができるのなら願ったりだ、とタケルヒコは思った。バディブリヤ氏族の族長が、まさか行方不明になっていた三の君――自分たちにとっても兄であるハルギクその人だとは思いもよらなかったが。彼がなぜマハリリヤ氏族を滅ぼし、朱瑠アケルを脅かすのか、話を聞くことができれば――


「敵も味方も、仇も仲間も、なんだかわけが分からなくなってきたぜ」


 ゾラの言葉が、今の状況を的確に表していた。


「とりあえず一時休戦だ」


 ゼヌベクは、とくにユウジュンを見ながらそう言った。ユウジュンは、今にもゼヌベクに斬りかかりたそうな顔をしていたが、場の雰囲気を読み、ぐっと踏みとどまった。


「当座の間は客人として遇する。ゾラ、お前は一足先に戻って準備しておけ」

「はい」


 ゾラは手綱を打ち、駆け去って行く。


 ゼヌベクは一同を見渡し、「ついてくるがいい」と鞍にまたがった。


「ミリ、おいで」


 騎乗したテルが手を差し伸べる。ミリがその手を取ると、軽やかに鞍に引き上げられた。

 ああ、やっと。ミリは安堵の気持ちを抑えきれず、テルに抱きついた。すると優しい手がミリの頭をなでてくれる。


「もう大丈夫だ」


 テルがささやく。


「今まで怖かったろう。頑張ったね、強い子だ」


 ミリは顔を上げた。


「あのね、私、母さんに会ったわ」


 ダーナ・ハリの神殿での出来事を話す。


「母さんは、もう母さんじゃなくなってた。精霊になって女神のところに還ったの。それが母さんが最期に望んだことだった……。それでね、私も、もういいかなって一瞬だけ思ったの。精霊になって、人間だったときのことなんか忘れて。でも、やっぱりテルに会えなくなるのは嫌だなって――だから私、ここにいるわ」


 テルはミリをぎゅっと抱きしめて、「よかった」と言った。


「私も、こうしてミリに触れられなくなるのは、嫌だから。ミリが諦めないでいてくれたおかげだね」


 そんな二人の様子を見つめながら、アスマは思った。

 大罪を犯し、銀の谷へ追放された一の君――テルナミ。その養い子で、アンダム・ジュスルの娘であり隠された子蛇ヴィカ・チャハリのミリ。バディブリヤ氏族の族長ゼヌベク――その正体は三の君ハルギク。さらに、ここにはイルファン大公国の公子ユウジュンと、朱瑠の皇太子タケルヒコがそろっている。今まさに、ここで、世界の流れを変える潮目が生まれようとしているに違いない。


 アスマは身体の震えをおさえようと、両腕を組んだ。

 見届けなくてはならない。自分はそのためにいるのだ。


*   *   *


 ゼヌベクの先導で、軍営に辿り着いた一行。

 彼らを出迎えたのは、バディブリヤ氏族の戦士たちの好奇の目だった。


「お帰りなさい、ゼヌベク様」


 先に戻っていたゾラが出てきて、そわそわしている戦士たちに気づくと、「お前たち、仕事に戻った戻った」と手を振った。戦士たちはちらちらと客人たちを見ながら、それぞれの持ち場に戻っていく。


「さあ、客人はこっちだ」


 ゾラが手招きする先は、ミリに用意されていた天幕だ。戸布を持ち上げると、人数分の椅子が用意されているのが見えた。

 ミリは少し離れたところに、世話役だった女たちがいるのに気づいた。その中にエミィザの姿をみとめ、ミリは顔を伏せた。

 天幕の中は、適度に温められ快適だった。だがミリはくつろぐ気にはなれない。


 最後に天幕に入ったゼヌベクは、みなに椅子をすすめる。

 炉を囲んで輪になるように腰掛けた七人。テル、ミリ、タケルヒコ、ナナクサ、アスマ、ユウジュン、ゼヌベク。奇妙な緊張感の中、最初に口火を切ったのはユウジュンだった。


「ダーロゥ第一公子を殺していないというのなら、居場所を教えろ」

「そう焦るな。すぐに会える」


 ゼヌベクが言うと間もなく、戸布が持ち上がり、ゾラに伴われたダーロゥが姿を現わした。


「兄上!」


 ユウジュンが立ち上がる。

 ダーロゥは弟の姿を認めると、苦虫をかみつぶしたような顔で「なぜ来た」と言った。

 ユウジュンには兄の心情を理解することができた。敵に捕らえられ、無様な姿を弟に晒さざるを得ない、兄の気持ちが。そして、その気持ちを悟られることを、兄が何より嫌うことも。


「申し訳ありません、兄上」


 ユウジュンは目を伏せた。


「でも、俺は兄上に死んで欲しくなかった」


 飾らない言葉に、ダーロゥは一瞬言葉を失った。だが、すぐに気を取り直すと、「全くお前は」と首を振る。

 ユウジュンがダーロゥに椅子を譲り、その背後に控えるように立つ。ゾラもゼヌベクの後ろに立ち、その場の人数が九人になった。


「まずは俺から話そう」


 ゼヌベクが切り出したとき、にわかに外が騒がしくなった。


「なんだ」


 ゾラが戸布に近づいたとき、何者かが押し入ってきた。ゾラは突き飛ばされて床に転がった。

 侵入者を追って、戦士たちが天幕の中に入ってくる。その場は一気に騒然となった。

 入ってきたのは、ひどく痩せた男だった。テルはそれがツキヒナだと分かり、思わず「ツキヒナ!」と叫んだ。


 ツキヒナは折れた匕首あいくちを構えていた。テルが宝剣で両断したものだ。もはや武器として役に立つはずもなかったが、ツキヒナは相変わらず感情の浮かばない瞳でテルを見据えながら、ほとんど残っていない刃を向けている。

 戦士たちがツキヒナを取り押さえた。ツキヒナはもがいたが、拘束から抜け出す力はない。やがてぐったりと動かなくなった。

 戦士たちによってツキヒナが縛り上げられる。取り上げた匕首あいくちを手にしたゼヌベクが、「折れている」と言った。


「私が斬った」


 テルが言うと、アスマが「破片はここに」と布にくるんだ破片を取り出す。ゼヌベクはそれを手に取り、ふたつをひとつに合わせた。


「なるほど」


 ゼヌベクはうなずいた。


「俺は、この匕首あいくちを覚えている。たしかにツキヒナ兄上のものだ」


 ゼヌベクは倒れ伏しているツキヒナを見下ろす。


「俺は、ツキヒナ兄上がどうしてこのような状態になっているかも、おおよその見当がつく」


 戦士たちに退出するように言い、ゼヌベクは再び椅子に腰掛けた。


「話してやろう。決して胸のすく話ではないがな」


 ゼヌベクはそう前置きすると、静かに語り始めた。

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