第49話 族長ゼヌベク④
どこに連れて行かれるのだろう。このままバディブリヤ氏族の軍営に連れ戻されるのはいやだ。ミリは弱々しく抵抗したが、力が入らない。そのうち頭を上げているのも辛くなって、ミリはゾラの背に突っ伏した。
気がついたときには、身体が妙にぽかぽかしていた。ミリは瞬きした。身体が水の中に――否、湯に浸かっている。白い湯気がふわりと顔にかかる。きょとんとしていると、向かいにゾラが腰掛けて、足だけ湯に突っ込んでいるのが見えた。顔を背けてこちらを見ないようにしている。
「おっ、気がついたな」
ミリはぽかんとし、次いで己の一糸まとわぬ姿を見下ろすと、悲鳴を上げた。
「きゃ――!!」
「み、見てない! 見てないぞ!! いや脱がすときにちょっと見えたけど……」
「いやあ――!!」
「仕方ないだろ。まあ諦めろ、な?」
「ここはどこ?」
涙目でミリが問うと、ゾラはごほんと咳払いをする。
「さっきの、ダーナ・ハリの神殿の周りは、こうして自然に湯が湧き出るところが多くてな。ここもそのひとつさ。温泉ってやつだ。大地の精気をおいらたちに分けてくれる、ありがたい存在だ。気分、だいぶ良くなっただろ?」
ミリは両腕で身体を隠しながら、不承不承うなずいた。
ゾラが満足げにうなずき、膝の上で頬杖をついた。
「身体をあっためる間、ちょいと昔話でもしようか」
彼はちゃぷちゃぷと足で湯をかき混ぜた。
「おいら、自分が
揺れる水面に目を落としながら、ゾラは語り出す。
「
「眠った力?」
「一番わかりやすく言えば、おいらが馬に乗ると、馬が普段の実力以上の速度で走れるようになる。……だから〝疾風のゾラ〟なんて異名がついちまったわけだが。――十四の歳のときに、氏族の男子たちの競走があったんだ。馬に乗って速さを競う。おいらにあてがわれた馬は、正直言って駄馬ってやつでね。まあどう頑張っても勝てないと、早々に諦めてたんだ」
ゾラは遠くを見つめて、ふうと息をついた。
「でも、いざ競走が始まってみると、どうだい。まるで風のようだった。ぐんぐん他の出場者たちを追い抜いて――だが、このときは乗り手の技術が追いついちゃいなかった。おいらは途中で振り落とされ、失格になった。でも、それがきっかけだったな」
初めて耳にするゾラの昔話に、ミリは思わず聞き入っていた。
「それから、薬草師のじいさんに弟子入りして、薬草の知識や治療の術を教わった」
ゾラは立ちこめる湯気のゆらぎを目で追いながら、続ける。
「あるとき、どうも峠を越せそうにない病人がいた。薬じゃ限界があった。その晩、病人があまりにも苦しそうで、ああこいつは死ぬな、って思うと――なにもしてやれない自分が悲しくてな、そいつの手を握ってやったわけだ」
すると不思議なことが起こった。ゾラの手から、病人の手へ、金色の光の筋が流れていったのだ。
幻覚かと思った。だが次の日、病人は峠を乗り越え、それだけでなく、立って歩けるほどにまで回復しているではないか。
「おいらもじいさんも確信したね。これはダーナ・ハリの加護――
ゾラは懐かしむように目を伏せる。その表情に滲んでいるのは、力を与えられたことに対する誇りなどではなかった。ミリは考える。この男は一族を裏切って滅亡に追いやった張本人なのに、どこか憎みきれないところがある。それは、彼が〝人を癒やす〟技術と能力を持ち合わせ、人のためにそれを行使する――テルを治療し、ミリを温泉へ連れてきたように――からなのか、ミリが無意識に彼の明るい部分を望んでいるからなのか、分からない。だが一方で、ゾラが、仲間を死の道に誘導することをいとわないほど、冷酷な一面があることをミリは知っている。人間を白黒に塗り分けることができないことは、ミリも分かってきてはいたけれど、ゾラはまさに、白と黒の層が何重にも折り重なった、善と悪とが混沌とした人間だった。
「さて、そろそろかな」
ゾラがざばりと湯から足を上げる。
そのとき、近くで馬のいななきと蹄の音が聞こえた。しばらくすると、足音が近づいてきて、ゼヌベクが松明を持って現れた。
「花嫁はとんだ跳ねっ返りだな」
ゼヌベクの顔には愉快そうな表情が浮かんでいた。ミリはぴしりと身体を硬直させる。
「たしかに、たったひとりでここまで逃げたんだ、気骨があるとも言う」
ゾラが足を振って水滴を落としながら言う。するとゼヌベクが呆れたようにゾラを見た。
「俺は、娘を見つけたらすぐに連れてこいと言ったはずだが。暢気に湯になど浸かりおって」
ゾラは軽く首をすくめる。
「おいらは薬草師、いわば医者の端くれですぜ。具合の悪い人間はまず治療が最優先なんで」
「なんだ、具合が悪かったのか?」
ゼヌベクがミリを見る。裸であることを、全く意に介す様子はない。ミリは答えず、より深く湯に身を沈めた。
「おいゾラ」
「はい」
「そいつの服を寄越せ」
「? はい」
ゾラがミリの着ていた衣をゼヌベクに渡す。何をするのかと思いきや、彼はその衣を松明であぶり、燃やしてしまった。
「!! 何を――」
思わずミリは立ち上がる。身体があらわになり、ゾラが「うおっ」と言いながら目を手で覆った。
ゼヌベクは「ふっ」と鼻を鳴らす。
「小娘の裸ごとき、毛を刈った羊のようなものだろうが」
ゼヌベクのこの行動に、ミリの頭は怒りに沸いた。あの衣はテルがくれた大切な――
そんなミリの様子に、ゼヌベクはにやりと口角を上げると、「ちょうど良い物がある。少し待て」と言ってどこかへ去って行った。
彼はすぐに戻ってきた。雑に小脇に抱えているのは、白い布の塊だ。
「お前にやるつもりで鞍に乗せてきたのだ」
ゼヌベクはそう言って布を広げてみせる。それは裾の長い衣服だった。
「
指の隙間からうかがい見たゾラの言葉に、ゼヌベクが答える。
「花嫁衣装として、これに勝るものはなかろう」
たしかにその祭祀服は、細かな刺繍や
ゼヌベクは衣をミリに渡し――押しつけるといったほうが正しい――一言、命じた。
「着ろ」
ミリは後じさり、首を振った。
「凍え死にたいのか?」
ゼヌベクが言う。
「それでもいいわ」
ミリは挑むように言った。するとゼヌベクはやれやれといった様子でため息をつき、おもむろにミリの首筋に手刀を打ち下ろす。ミリの意識は暗転した。
気がついたときには、ミリはゼヌベクに抱えられるような体勢で、馬に乗っていた。すでに日は高く昇っている。
なんだか既視感のある――ああそうか、ゾラに連れ去られたときも、このように目覚めたのだ。違うところといえば、身体は縛られておらず、馬の歩調もゆるいことである。
服は祭祀服に着替えさせられていた。
ミリはぐっと奥歯を噛んだ。いつもこうだ。圧倒的な力の前では、ミリはいつもなすすべがない。抵抗しても無駄なのだ。
「起きたか」
ゼヌベクが口を開いた。
「あんまりだわ」
ミリはつぶやく。
「つまらぬ希望は抱かぬことだ。お前がどうあがこうが、俺の妻となる運命からは逃れられん」
すると、併走していたゾラが声を上げた。
「ゼヌベク様と婚姻するだなんて、平原中の女たちが夢見ることだぜ。なにせ平原の支配者の妻になるってことだからな。そう悪いことばかりでもないと思うけどなあ」
ミリはきっとゾラを睨んだ。
「意思を踏みにじられ、尊厳を無視されて、それでも今の私が幸せだと? もしそうだとしたら、それは欺瞞よ。ゾラ、あなたには想う人はいないの?」
ゾラは虚を突かれたような顔をした。ミリはたたみかける。
「もしいるなら、その人に対して同じことができる?」
「おいらは……」
そのとき、ゼヌベクが馬を止めた。
「誰か来る」
「え?」
同じように馬を止めたゾラが、目をすがめながら前方を見る。
こちらに向かって疾走してくる、数騎の影。その先頭を走る者の顔が見えると、ゾラは目を剥いた。
「あれは――」
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