第48話 族長ゼヌベク③
そして夜になった。ミリは戸布の隙間から外をうかがう。エミィザはうまく眠り薬を仕込んでくれただろうか。
天幕の外に立っていた戦士が、大あくびをして地面に座り込むのが見えた。頭がぐらぐら揺れたかと思うと、上半身がかしいでいき、地面にばったりと倒れ込む。聞こえてきたいびきに、ミリはエミィザが首尾良くやったことを悟った。
「ミリィザ様」
エミィザの声がする。ミリはそっと戸布を持ち上げて顔を外に出した。
「こっちです」
手招きするエミィザについていくと、天幕の裏に一頭の馬がつないであった。
「この馬は気性がおだやかですから、ミリィザ様のいうこともよく聞いてくれるはずです」
エミィザはぽんぽんと馬の首筋をやさしく叩く。馬はおっとりとした表情でミリを見下ろした。
「食糧はここに。それと松明も」
エミィザが鞍に取り付けた袋を指さす。
「それから、これを」
エミィザが差し出したのは一着の外套だ。ミリには少し大きかったが、冷気を遮断し、とてもあたたかそうだ。裏には、「マハリリヤに栄光あれ」と縫い取りしてあった。
「ありがとう」
ミリは外套を羽織り、馬にまたがった。
「……エミィザも一緒に――」
「私は行けません。足手まといになります」
エミィザは微笑んだ。
「どうか、逃げてください。あなたはマハリリヤ氏族の残された希望。私たちの大事な
その表情は、どこか泣いているようにも見えた。ミリはぐっと奥歯を噛みしめ、前を向いた。
手綱を打つ。馬は駆け出した。ミリは鞍にかじりつく。
どうか、どうか。誰も私を追わないで。
満天の星空。月は出ていなかった。ミリの姿は暗闇へと消える。それを見送ったエミィザは、祈るように両手を胸の前で組み合わせた。
ミリィザ・マハリリヤに、ダーナ・ハリの加護があらんことを。
平原は星明かりでほのかに照らされ、薄く積もった雪が青白く浮かび上がっている。ミリは軍営からだいぶ距離を取ったと思うところで、一度馬を止めた。
どこに向かえば良いのだろう。とりあえず、大北壁へ戻れば良いだろうか。
こっちへおいで、愛しき
母のもとへおいで……
母のもとへ……
地面が優しい声でミリに語りかけてきた。ミリはその声に耳を傾ける。
「母さんの、ところ?」
声に導かれるまま馬を走らせた。胸が高鳴るのは気のせいではない。母がいるのだ。この先に。
林の中に入る。木々の間を抜け、辿り着いた先にあったのは大きな岩の塊だ。ミリはぐるりと岩の周囲を巡った。すると、一箇所、ぽっかりと空いた穴があった。
声はこの中からだ。
ミリは馬を穴の傍につなぎ、袋の中から松明を取りだした。エミィザが火打ち石も入れてくれていたので、カチカチと何度か打ち合わせ、明かりを得る。
そろりと穴の中に足を踏み入れると、暖かい空気が身体を包んだ。足下の岩に触れてみると、じんわりと暖かい。
この空間は、人の手で掘り広げられたようだ。壁には、人の上半身に蛇の下半身を持つ女人の姿が彫られていた。
ミリは奥へと進む。壁には無数の小さな穴が空いていた。これはいったいなんだろう?
こっちへおいで、愛しき
母のもとへ……
やがて最奥に辿り着く。ミリは松明をかかげ、呼びかけた。
「母さん?」
ずるずると何かを引きずるような音がした。どこから聞こえるのだろうときょろきょろしたミリは、己のその行動が全く無意味であることを悟った。
音は全方位から聞こえているのだ。
岩壁に空いた沢山の穴。
白くて長い紐のようなものが、ぞろぞろと穴の中から姿を現わした。
ミリはそれを凝視し、紐の正体が蛇であることに気がつく。
それはあっという間に数え切れないほどの数になった。ミリの喉がひきつった音をたてるが、声は出ない。恐怖で声の出し方を忘れてしまったのだ。たとえ発声できたとしても、誰が聞くわけでもないのだが。
蛇がミリを取り囲み、その輪を縮めてくる。やがて足の先から蛇が巻き付き、ミリの身体を登り始めた。
「あっ――」
ミリの両脚が、華奢な腰が、薄い胸が、細い肩が、松明を支える腕が、蛇の群れに飲み込まれる。松明が落ちた。視界が蛇に覆われて真っ暗になる。ミリの意識はだんだんと遠くなっていく。
幻を見た。
洞窟を歩くひとりの女人。その姿を、ミリはよく知っていた。
母さん――
アリィザは、病に冒され、痩せた身体を引きずるように歩いていた。やがて彼女はミリと同じように洞窟の奥に辿り着く。
穴から蛇たちが現れる。蛇はアリィザの身体を登り、その痩躯を包み込んだ。
蛇をまとったアリィザの前に、何者かが現れる。上半身は美しい女、下半身は長い尾を持つ蛇。
女神ダーナ・ハリ。
女神は両手を広げてアリィザを抱擁すると、何事かささやいた。ミリの耳にはその声は届かなかったが、何を言っているのかは理解できた。
おかえり、我が愛しき
アリィザの身体にまとわりついた蛇たちが離れ始める――否、彼女の身体が、何匹もの蛇に変化し、指先からほどけていくのだ。
やがてアリィザという人間は、存在そのものがなくなった。彼女は無数の蛇の中に溶け込んでしまったのだ。
幻が消える。ミリの目に涙が浮かんだ。
ああ、母さんは……。
ミリを置いて消えたアリィザは、病にかかっていた。彼女は、そう遠くない自分の最期として、ダーナ・ハリのもとに還ることを選んだのだろう。
ミリはふっと身体の力を抜いた。すると、何者かに抱きしめられる感触がした。あたたかく、やわらかい。慈愛が心に流れ込んでくる。
ミリの身体もまた、蛇となり、指先からほどけ始めた。
そのとき。
「しっかりするんだ!」
誰かの声が聞こえる。
「このまま精霊の仲間入りをする気か!?」
その人物は蛇をわし掴むと、ミリの身体から引き離し始めた。ぼんやりしていた意識がだんだんとはっきりしはじめ、ミリは己が蛇になりかけていることに気づいた。
「いやだ! 私は――」
ミリが叫ぶと、蛇たちは動きを止めた。
ぼた、ぼた、と蛇たちが地面に落ちていく。やがて彼らはミリの身体から離れ、穴の中に戻っていった。
「……」
「……」
視界が開けたミリは、そこに立っていたゾラを見上げる。
「……どうして」
「まったく」
ゾラはため息をついて、がしがしと頭をかいた。
「肝が冷えたぜ。おいらが間に合わなきゃ、お嬢さんは暗い穴の中で一生を過ごす羽目になってたぞ」
ミリは両手を見下ろした。蛇に変身しかけていたが、すっかり元に戻っている。
ゾラは地面に落ちた松明を拾い上げた。炎はまだ燃えており、周囲を照らしてくれている。
「さあ、戻るぞ」
その言葉に、ミリはぐっと唇を噛んだ。逃げ切れなかった。エミィザがせっかく逃がしてくれたのに。
「なぜここが分かったの」
ミリが問うと、ゾラは眉を上げる。
「分かってたわけじゃねえよ。お嬢さんがいなくなったのに気づいてから、手当たり次第探しただけだ。おいらの馬は速いから、そのぶんあちこち探して回れるのさ。それにこの洞窟は、他の奴らは入れない。
言いかけたゾラはしまったという顔で口をつぐんだ。耳ざといミリはしかし、目を見開いて追及する。
「あなたも
ゾラは視線をうろうろさせ、唇を開いては閉じるを繰り返した。やがてごまかしは効かないと悟ったのか、潔く「うん」とうなずいた。
「言うつもりはなかったんだけどな。まあ、そういうことだ」
そのとき、ミリの背筋を急激な寒気が襲う。次いでめまいが起こった。立っていられなくなり、うずくまった。
「どうした? 大丈夫か?」
「……寒いし、ぐるぐるする」
ゾラがさっとミリの手を取り、脈を測る。
「うん、さっきので精気を吸われたんだろう。よし、良い場所がある。ここからそう遠くない」
ゾラはミリを背負うと、洞窟の入り口に向かって歩き出した。
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