第47話 族長ゼヌベク②

 バディブリヤ氏族の軍営に到着した。ダーロゥはどこかに連れて行かれ、ミリは大きな天幕に案内された。


「楽にするといい。ここはお前のために用意させた。好きに使え」


 天幕の中は広々としていた。調度品も立派なものであった。毛織りの敷物はふかふかと暖かく、卓と椅子はつややかな黒檀、衣装櫃には色とりどりの衣が収められ、炉は陶器でできていた。


「……あなたの目的はなに。どうして私を連れてきたの」


 ミリはゼヌベクからなるべく距離を取るようにして、恐る恐る尋ねた。

 ゼヌベクは口の端に笑みを浮かべながら答える。


「お前は俺の夫人となるからだ」


 さも当然というような口ぶりであった。


「夫人……!?」


 ミリは仰天して、数歩後ろに下がった。天井から垂れ下がっていた装飾が、ミリの頭にぶつかる。

 この男の妻に。自分が? ミリは目を見開いてまじまじと男を見つめた。なにかの冗談であってほしい。しかし、ゼヌベクは続ける。


「婚儀は明日だ」

「明日!?」


 ミリはそれきり言葉を失った。すうっと血の気が失せていく。


「言っておくが、拒んでも無駄だ」


 ミリの表情を読んだゼヌベクが言う。


「平原における婚姻の習わしを知らぬわけでもあるまい」


 彼は椅子に寄りかかり、試すようにミリを見た。そのどこか面白がるような視線に、ミリはぐっと唇を引き結ぶ。


「明日までに心の準備をしておくことだな」


 ゼヌベクはそう言って、すっと近寄ると、指先でミリの髪を一筋もてあそんでから、天幕を出て行った。

 ひとりになったミリは、しばらく無言で突っ立っていた。


 どうしよう。


 ミリは両腕で我が身を抱きかかえた。結婚だと? あの男と自分が? 冗談ではない。


 逃げなきゃ。


 ミリはそう決心した。だがどうやって?

 そっと天幕の外を覗いてみた。戦士たちがゆったりと談笑しながら、天幕を取り囲んでいる。彼らは見張りなのだろう。ミリを逃がさないために。

 男たちの声に交じって、女たちの声がした。こちらに近づいてくる。ミリはさっと天幕の入り口から離れ、平静を装って椅子に腰掛けた。


「ミリィザ様」


 天幕に入ってきた女たち。彼女らはミリの前に跪くと、「私どもは、今日からあなた様のお世話をさせていただきます」と頭を下げた。


「世話? なぜ?」


 ミリが尋ねると、一番年長らしい女が「族長のお取りはからいでございます。はじめは不便も多かろうと」と答えた。


 女は柔和な笑みを浮かべる。ミリはぎこちなく笑みを返しながら、考えた。この女たちも、恐らくミリを監視するために寄越されたのだろう。

 女たちはミリに食べさせる食事の準備をしたり、湯浴みをさせたりと、かいがいしく働いた。ミリは、今はされるがままになっているほうが得策であろうと、女たちの好きにさせた。だが、衣を着替えるように言われたとき、ミリは首を振った。

 テルが刺繍してくれた晴れ着。


「大事なものなの」


 ミリがかたくなに言うので、女たちは「せっかく綺麗な衣がございますのに」と残念がりながら、髪型だけを平原風に結い直した。

 ふと、ミリを取り囲んでいる女たちから離れて、ひとり炉の掃除をしている女に目が留まった。

 金に近い薄茶色の髪をしている。ミリはその女の面影に、どこか見覚えがあった。


「あっ」


 ミリは思わず声をあげた。するとその女は気がついたようで、ぱっと顔を上げると、そっと人差し指を唇に当てる。


「いかがされましたか?」

「ううん……なんでも」


 ミリは視線を戻し、目の前の卓に並べられた食事を見た。よく火の通った羊肉は香草で香り付けされ、汁物は乳酪の匂いがする。食欲は湧かなかったが、ミリが食べねば女たちが困るのだろう。のろのろと食事に手を伸ばし、ミリはやっとの思いで半分ほどを飲み込んだ。

 女たちはミリに話しかけたり、野ウサギを連れてきて遊ばせたりした。ミリはそれを眺めながら、視界の端で薄茶色の髪の女を追っていた。女は皆と離れて掃除をしたり、家具を拭き清めたりと、黙々と働いている。


 ミリは、眠くなったので一人にしてほしいと女たちに頼んだ。女たちは「そうですか」とうなずき、従順に天幕から出て行く。最後に薄茶色の髪の女が天幕を出るとき、ミリは目配せをした。女はそっとうなずき、外に出て行く。

 ミリは寝台に横になり、眠ったふりをしながら考える。

 どうしてあの女人が、バディブリヤ氏族の軍営にいるのだろう。出会ったのは一度きりだったが、ミリは彼女のことを覚えていた。

 銀の谷。テルと川に水浴びに行ったとき。ミリを見て驚き、川に落ちた女がいた。彼女は薄茶色の髪をしていて、平原の言葉を話したのだ。

 入り口の戸布が静かに持ち上がる音がした。ミリは寝台から起き上がる。


「ミリィザ様」


 薄茶色の髪の女が、そっと天幕の中に身を滑り込ませた。


「エミィザと申します」


 女の名乗りを聞いて、ミリは身を乗り出した。


「エミってことは……あなたも」


 エミィザはうなずく。


「はい、私もマハリリヤ氏族の生まれです」


 鉱山で会いましたね、とエミィザは言った。


「あなたが、まさかアリィザの娘だったとは。隠された子蛇ヴィカ・チャハリのことを知らないと言っていたから……」


 ミリはうつむいた。母が故郷のことを語ることは少なく、父親のこともほとんど話さなかった。唯一話してくれたことといえば、故郷には神殿があり、白い装束を着た人が住んでいる、ということぐらいだ。


「その神殿なら、今もあります」


 エミィザが言った。


「もっとも、神殿のあるマハリリヤ氏族領は、バディブリヤ氏族のものになって、神殿の手入れもずっとされていませんが。白い装束というのは、隠された子蛇ヴィカ・チャハリの祭祀服のことでしょう。隠された子蛇ヴィカ・チャハリは、女神ダーナ・ハリのために祭祀を行うものでしたから」


 エミィザは、マハリリヤ氏族の戦士たちは殺され、女たちはバディブリヤ氏族に組み込まれたことを話した。エミィザ自身は、三年前、銀の谷がバディブリヤ氏族に襲撃を受けた際に、他の坑夫たちと一緒にバディブリヤ氏族領に連れてこられたと言った。


「エミィザはどうして銀の谷にいたの?」


 ミリが尋ねると、エミィザは自身の髪をつまんで言う。


「私、この通り混血です。父はイルファン大公国で傭兵をしていました。定期的にお金を送ってくれて……でも亡くなったんです。遺灰と遺品を受け取りにイルファンへ向かっていたところ、道中で人買いに捕まって――朱瑠アケルに連れて行かれた」


 エミィザは目に涙を浮かべた。


「バディブリヤ氏族が私を銀の谷から連れ出したとき、やっと帰れるって思ったんです。でもまさか、故郷が滅ぼされるなんて」


 苦痛に満ちた彼女の顔に、ミリはぎゅっと胸をしめつけられた。

 エミィザは続ける。


「だから私、あの男――ゼヌベクとあなたが婚姻するなんて、許せない。私たちの故郷を踏みにじった奴が、あなたをも手に入れるなんて――」


 エミィザはぎゅっと拳を握りしめ、ミリを見つめた。


「――あなたはここから逃げるべきです。明日になれば婚儀が行われてしまう。今夜、私が見張り役の食事に眠り薬を仕込みますから、ミリィザ様は逃げてください。できるだけ遠くへ」


 鬼気迫るエミィザのまなざしに、ミリはごくりと喉を鳴らす。どうやら逃げ出す算段はつきそうだ。


「逃げるのに必要な馬や荷物は、私が用意しておきます。ミリィザ様は、周りの者に悟られぬよう、普通に過ごしてください」

「……分かった」


 ミリがこくんとうなずくと、エミィザもうなずき返し、「それでは」と静かに天幕を出て行った。

 思わぬところに味方が現れた。ミリは、ほうと息をついた。


 大丈夫、きっと逃げられる。


 ミリはぎゅっと拳を握り、心の内で自らを鼓舞した。

 万が一見つかったら、と考えずにはいられないが、それを恐れて縮こまっているよりは、行動に移したほうがいいに決まっている。そうでなければ、ミリを待っているのは、ゼヌベクの妻になるという運命だ。


 どうかうまくいきますように。

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